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気がつけば、モスクワ特派員の妻
〜ゆうこさんのロシア滞在記・・50%の涙と50%の音楽〜 

                       副島優子(兵庫県芦屋市在住)
第一話 ゆうこさんモスクワに着陸
「1999年5月」のその時まで、自慢ではありませんが、私は海外に行ったことはありませんでした。その時、私はすでに43歳になっていました。娘が2人。長女は高校を卒業したばかりの18歳、次女は小学校3年8歳でした。
子供がいるということは当然夫がいるわけで、夫は私よりかなり年下で、新聞記者をしていました。もちろん今も同じ職業ですが。
モスクワで懸命に習ったアコーデオンを抱く筆者
演奏を聴く

この年下の夫が、私の穏やかな人生に「ロシア連邦」を組み込んでしまい、
人生半ばにして、大ドンデンガエシを仕掛けた張本人です。
阪神大震災も震度7の激震を芦屋市内のマンションで遭遇していた私は、
「なにがあっても、もう驚きはしないなあ・・」なんて、その時43歳にして
何もかも世の中のことがわかってしまったような、そんな気分ですごしていました。                        


突然にモスクワ異動の辞令 〜外国らしい、外国はここだけとか〜
そんな日常の中、突然夫に異動の辞令が下りました。行き先はロシア連邦モスクワ市、任期は3年。夫のコメント「世界中で、外国らしい外国はもうここだけだよ。ロンドンやパリやニューヨークはもう、東京と同じで外国じゃないよ。本当の外国で暮らせるんだよ、素敵だよ」「ロシア語がわからないのを心配してるの?大丈夫だよ、君の笑顔があればOK!ロシア人ともその笑顔で何とかなるよ」心配しようにも、情報が少なすぎました。ロシア連邦モスクワ市に住んだ事のある人を探し出す事は、当時の私には不可能でした。
その夜、洗面台の鏡の前で何度も何度もニコッと笑って、「これで本当になんとかなるのかなあ・・・」と、思いつつ、レイゾーコに張ってある2月のカレンダーを2枚めくり、4月1日に「パパモスクワ」と赤で書きこみ、大きな丸をつけました。

成田空港を飛び立って10時間、私と娘2人を乗せた飛行機はモスクワシエレメチボ空港上空を旋回していました。モスクワ支局へ3年の異動辞令が出てたった2ヶ月後でした。夫は先に赴任していましたので、娘たちと3人での旅立ちでした。「成田は5月のさわやかな青空だったのに、なんてどんよりした空なんだろう」。機内の小窓から眺めた私にとってはじめての異国でもあるモスクワの空は、「色」がなく、ただただ広く、飛行機のエンジン音の向こうに無機質に見えているだけでした。
「いつまで回ってるんだろう・・・」シエレメチボ空港上空を、もう20分近く旋回していました。
ローマ行きのジャンボ機は満席状態で400人は乗っていました。斜め前の初老の男性が小声で言うのが聞こえました。「この空港はしょうがないよなあ、上空までこないと、どこの滑走路が開いてるのかわかんないっていうじゃない。多分、どこに降ろそうかウォッカ飲みながら相談してんだよ。世界一現場処理の国際空港だからなあ」、「ママ、ほんとなの?」2人の娘が、その言葉に反応して不安そうに私を見ました。「冗談、冗談、大丈夫。それにお酒なんか飲んで仕事してるわけないでしょ」小声で笑いながらそう答えたものの、実は、私の頭の中は大騒動でした。
寒く暗い冬が続くモスクワの街角

「そんな事はないはずだけど・・・」、「もしかすると、少しはそんなロシア人もいるかも」、「いえ、そんなことはない。宇宙にだってあんなに有人ロケットを飛ばせる国だもの、大丈夫大丈夫」、「でも、どうしてこんなに時間がかかってるのかしら」、「もしかして・・・とんでもない国だったら」
「誰か!お願い!違うっていって!」飛行機は、約35分、それはそれは辛抱強く、延々空港上空を旋回した後無事着地、いえ着陸しました。
その日から2年6ヶ月のモスクワ生活が、私の人生をこれほどまでに大きく変えることになることなど、もちろん予想などできるはずもなく、心の中でひたすら「どうか、普通の国でありますように」と、それは悲鳴に近い祈りを天にささげつつ、飛行機の着陸時の振動に身をまかせ、エンジン音が停止するまで身を硬くしていました。私のモスクワでの生活がはじまってしまいました。

第二話   ゆうこさんエレベーター前で悟る

何度も思い出そうと、さっきからしているのですが・・・。「何を」ですって?「飛行機を降りたときから」のことをです。私の頭の中から、モスクワシエレメチボ空港に着陸してから、住居となるダラガミロブスカヤのアパート前到着までの記憶が、なぜかすっかり飛んでしまっているのです。なぜ思い出せないのでしょう。ボケる年齢でもなかったはずなのですが・・。
推測するにその時私は、「よほど疲れてた」か、はたまた「よほど記憶に留めたくないほどインパクトの強いものを見てしまっていた」のか・・だと思います。日本を一歩も出た事がなかった人が、です。それも、関西では一番穏やかな地といわれる芦屋のマンションから、いきなりロシアですから察してください。記憶も飛んでしまう事もあるでしょう。
 モスクワ暮らしを楽しむ娘たち

気がつくと、モスクワ市キエフ駅近くのダラガミロブスカヤという場所に建つ9階建てのアパート前でした。出迎えにきてくれていた夫は、会社の前で降りましたので、アパートに向かったのは、私と娘たち、それと会社のドライバーユーリャさんと通訳のイリーナさんでした。 
4つ目のドアを押して中に入ると、エレベーターがありました。エレベーターを呼ぶボタンを押して、乗り込もうとしたときです。
駐車場で見かけたおじさんが、ドアを開けて入ってきました。今日私たちが到着する事を知っていたのか、私を見るとイリーナさんにむかってなにやら勢いのいいロシア語で話はじめました。
イリーナさんが日本語で私に通訳しはじめました。「彼は駐車場にいるガードマンの人です」、「彼は、新しい日本人に話すように言ってました」、「エレベーターの説明をします」、「モスクワには沢山のアパートがあります」、「ここのアパートは外人アパートですから、質はいいです」、「それぞれのアパートには、もちろんエレベーターがあります」、「それぞれのエレベーターには、それぞれの癖があります」、何を説明しようとしているのでしょう。でも、動物的勘・・とでもいいましょうか、何気ない不安感です。長女が私を見ています。私と長女のアイ・コンタクト・・・母娘ですから以心伝心・・・・。
娘<ママ、癖って言ってる・・けど・・・>、私<言ったような気がするけど・・。いったい何???>
 住宅や高層ビルの林立するモスクワ中心部

娘<ママ、気を確かに!>、私<わかってるわよ・・。>イリーナさんの通訳が続きます。「4番目のドアにあるこのエレベーターの癖をぜひ覚えていただきたいです」、「このエレベーターはですね」、「エレベーターの扉が開いても箱が来ていない事がありますそうです」、はあ??、「だからですね」、「箱が来てる事、確かめて、お乗りください」、「後は問題ないそうです」はあ??「昔、4年前アメリカ人のお母さんとベイビーが死んでしまいましたそうです」はあ・・・・・・。「それはですね、5階に住んでました。5階からボタンを押してエレベーターを呼びましたそうです」「1階に下りるためです」「ベビーカーにベイビーを乗せて、降りるときに便利なようにママは後ろ向きで、そう、こんな風にバックでエレベーターに乗ろうとしました」。
ここで、イリーナさんのジェスチヤー。「エレベーターの扉が開いたのですけれど、箱は来てませんでしたね」、「その後、ベイビーとママは落ちて死んでしまいました」「アメリカ人は合理的ですから、そうなりました」、ゴウリテキ・・・・はあ・・・
「では皆さん、乗りましょう、箱は来てますから」エレベーターに先に乗り込んだイリーナさんは笑顔でした。モスクワに着陸してまだ、2,3時間しかたっていませんでした。でも私はエレベーターの前ですでにそれからの生活の全てを悟ってしまいました。4階で、エレベーターは無事止まり、扉が開き、目の前に新居となる部屋のドアが見えました。2重ドアです。1枚目のドアに鍵が2個。2枚目のドアにも鍵が2個。イリーナさんが4個の鍵を1つずつ開錠していく音を聞きながら、生きて帰れるかなあ・・・って本気で心配していた私でした。
(第3話に続く)

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