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豊かな大地に暮らして (3) 「ブリヤートと日本」  04年8月更新
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ウランバートル便り

ブリヤートモンゴル(5)

モンゴル国立総合大学 日本語講師
 中 西 利 恵

 (ウランバートル在住)
〜テレリジの思い出―つづき〜
ぶっつけ本番・乗馬で草原を進む


 まさにその時、草原の向こうから2頭の馬を連れたおじさんがやってくるではありませんか!これぞ渡りに船。そこで、そのおじさんに事情を話すと、いいよ、1時間1ドルでテレリジまで連れて行ってあげる、とのこと。やったぁ!馬に乗るのは初めてだった私ですが、いきなりぶっつけ本番。おじさんに手綱を握ってもらって、草原を進みます。目の前には輝くばかりの緑の草原と、抜けるように青い空だけが広がっています。馬が草を踏む時に立てる、とっすとっすという音と、馬に驚き跳ね上がるキリギリスの羽音の他には何も聞こえません。そんなのが2時間も続いたでしょうか。このまま自然の中に溶け込んでしまうのではないかと思われた頃、岩山が聳え立つ目的地が見えてきました。おじさんに待っていてもらって、亀石の洞窟で一休みした後、再び馬に乗り、来た道を引き返します。突然、おじさんが「せっかくだから走ってみようよ」と言い始めました。戸惑う私に、両側からしっかり持っていてあげるから大丈夫、君は鞍にしがみついてなさいとダワも言います。走り出す馬。絶叫。さわやかな風が体中を吹き抜けます。すごい!自由自在に馬をかれるようになりたい!そう思った瞬間でした。

大粒の雨に、「君はモンゴルに気に入られたみたい!」
 ひたすら草原を進んでいると、今まで明るかった空が急に暗くなり、雷鳴とともに大粒の雨が降ってきました。たたきつけるような強い雨で、むき出しの腕が痛いぐらいです。あわてて木陰に逃げ込みましたが、その間に下着までずぶ濡れ。ジーンズから滴るしずくを見ながら、どうしたものかと思っていると、これまた嬉しそうに笑いながらダワが言うのです。「どうやら君はモンゴルに気に入られたみたいだね。こんないい雨が降るのは君を歓迎している証拠だよ」
 いつの間にか雨があがり、再び青い空が広がっています。ちょっと用事があるから先に行っててくれ、このまま行ったら家があるから、と言い残し去っていくおじさん。オイオイ、他人に自分の馬を預けて放っておいていいのか?と思いきや、草原では何の不思議もないとのこと。厳しい自然相手の遊牧社会では、助け合いが当たり前。誰も他人の家畜を盗んだりしないし、誰かの家畜が迷い込んできた時には、飼い主が現れるまで大事に世話してやる。それが草原の掟なのです。
すばらしい草原の人々との出会い
しばらくすると、おじさんの言うとおり、ゲルが見え始めました。サンタックさんのお宅ですか?と聞くと、それはお隣りさんだと言います。隣ってどこ?!と思っていたら3キロほど先でした。おじさんの家につくと、まるで昔からの知り合いみたいに親しく迎え入れてくれ、夕飯までご馳走になってしまいました。夕食を食べてアイラグを飲んでいると、おじさんが帰ってきました。陽は西に傾き、ちょうど乳搾りの時間。せっかくだから乳をしぼっていきなさい、と言われ、乳搾り。自分のしていることが何だか信じられませんでした。かわいい子牛がいたのでなでていると、「気に入った?欲しいんだったらあげるよ」とおじさん。真剣に悩む私を見てみんなが爆笑。「冗談だよ、バカだなぁ」ふと、気が付くとダワがいません。聞けば馬に乗って出かけたといいます。え?それで私はどうすればいいの?だんだん陽は暮れてくるし、家へはどうやって帰るのでしょうか?次第に不安が増してきて、家畜の群れの傍で途方に暮れていると、車のクラクションが!みるとガソリンタンク
サンタックおじさん(手前)の手ほどきを受けながら、
  牛の乳搾りに挑戦する筆者
の修理を終えたスピード狂の運転手がにこにこしています。その後ろから馬に乗ったダワが走ってくるのが見えます。車を迎えに行っていたのか・・・でもどうやって連絡を取ったんだろう・・・未だに謎です。
サンタックおじさんにお礼を言って別れを告げると、「来年もおいでね」とやさしく言ってくれました。感謝の気持ちで胸がいっぱいになり、頷くことしかできませんでした。一日中拘束したのに、おじさんはいくらも受け取ってくれませんでした。おじさんにとっては、私たちは迷い込んできた家畜のようなものだったのかもしれません。素晴らしい草原の人々との、忘れられない出会いでした。
わずか3年で、様代わり
〜軒を連ねるキャンプ場と進む観光開発〜

その3年後の2002年に、日本から来た家族を連れて、再びテレリジの亀石を訪れた時、その変わり様に、私は自分の目を疑いました。1999年の夏、私がひたすら馬に乗って進んだ草原には、車が走ってできた道が、広い帯状に広がっています。その向こうには、以前はなかったキャンプ場が軒をつらね、たくさんのジープが止まっています。そして亀石の下では、観光客向けの乗馬サービスが行われていました。値段を提示しながらしつこく付きまとう乗馬サービスの男に、思わず激しい嫌悪感が沸きあがりました。あの、サンタックおじさんとの夢のようなテレリジ探索から、わずか3年です。すっかり様変わりしたテレリジは、私が知っているあのテレリジではありませんでした。人口が少なく、産業の発展も難しいモンゴルにとって、観光業の成功は必須です。ですが、手付かずの自然、あるがままの自然こそが美しいモンゴルにおいて、その自然が商業化の波に歪められてしまうのは悲劇以外の何ものでもありません。日本からモンゴルを訪れる観光客も増えています。そんな観光客の皆さんの多くが、大自然を楽しみたいとおっしゃる半面、トイレがないのは困るとか、シャワーがないと耐えられない、などと言うのを聞くと、そこに矛盾を感じざるを得ません。快適さに慣らされた日本人にとって、モンゴルの自然がありのままでは厳しすぎることは分かります。お金を払ってくるのだから、できるだけいい条件で楽しみたい、というのも尤もです。けれども、ほんの1週間だけ楽しい思いをすることが、いかに多くの自然を荒らし、現地の人々の生活にどれだけ大きな影響をもたらすかということに、今一度思いをめぐらせていただければと思います。民主化をきっかけに、すっかり影響力を失ってしまった政府が、富を求めてせめぎあい、競い合う人々をコントロールできないのが、現代のモンゴル社会です。
 そして恋人たちは草原を行く・・・

無学な人々は、目先の利益ばかりを追い求め、愚かな行動に走ります。壮大な自然を楽しむだけではなく、その自然がいつまでもその姿を失わないよう努める姿勢が、毎年1万人以上の観光客を送り込んでいる日本にも必要なのではないでしょうか。もちろん、自国の自然を守るために、最大の努力を払わなければならないのは、誰よりも、モンゴル人自身、なのですけれど。
           

モンゴル人と在ウランウデ日本総領事館で国際結婚
 2000年9月、私はモンゴル人のダワースレンと結婚しました。結婚式は、モンゴルと日本の親族、そしてブリヤートの大学関係者を招いて、ウラン・ウデ市内のモンゴル国領事館で行いました。式の準備は大変でしたが、苦労の甲斐もあり、一から十まで手作りの、思い出深い結婚式になりました。
結婚式の後、私は日本へ一時帰国。3ヵ月後の12月末、娘を出産しました。その2週間後に夫が来日。ひと月後には、生後1ヵ月半の娘を連れて、福岡からソウル経由でウランバートル入りし、その足でウラン・ウデの我が家へ向かう鉄道に乗り込みました。乳飲み子を抱えて、よくぞそんなことができたものだと思いますが、私たちは、そのとき、ただひたすら住み慣れたウラン・ウデに帰りたかったのです。
モンゴルの民族衣装(デール)に身を包んだダワースレンと筆者。
デールは採寸して作ってもらったもの。帽子はウランバートルのオペラ劇場の衣装係りに頼んで作ってもらった。筆者の帽子の飾りは、市販の真珠のネックレスを買って分解し、自分でつけたもの。
民族衣装に身を包んだ、思い出の結婚式!











ウラン・ウデに着くと、大変な毎日が待っていました。寮の共同生活での子育ては想像以上に辛いものでした。洗濯機がないので、毎日山のように出る洗濯物はすべて手洗い。紙おしめは高価なので、診療所などに行くとき以外は、布おしめを使いました。行水は共同のお風呂場からお湯を運んで、お湯が出ない夏場には、大きな鍋で湯を沸かして使いました。それでも全ての作業に使うだけのお湯を調達することは難しく、洗濯のすすぎは、いつも冷水でやっていました。バイカル湖の支流から引く水道水は、夏でも氷のように冷たくて、おしめを3枚も洗えば、手がその感覚をなくすほどでした。
日本と違い、ブリヤートでは育児休暇中の収入が保証されないので、私が働けない分、家計の収入は減りました。夫はそれを埋め合わせるべく、朝から晩までノルマ以上の授業数をこなすのに精一杯で、家事を手伝う余裕はありません。子育てと家事とが、私の肩に重くのしかかりました。自ら望み選んだ道だけれど、骨まで凍るような冷たい水で、毎日20枚、30枚のおしめを洗っていると、やりきれなくて、涙がこぼれたこともありました。
困難を乗り切れたのはモンゴル人の夫の助力と愛情と周りの支え
そんな生活を乗り切れたのは、常に私を気遣い、可能な限りの助力を惜しまなかった夫の愛情と、周りの人たちの温かい支えがあったからでした。それに、そのような生活は、何も私たちに特別ではなく、現地に住んでいる人なら誰でもやっていることなのです。水道がある私たちは恵まれていたと言ってもいいでしょう。ウラン・ウデには、屋外にある共同の水道で水を汲み、木造のアパートに住む人々が、まだたくさんいるのですから。
ブリヤート大学で催された旧正月(サガルガン)のお祝い 

育児日記などつける暇もなく、月日は飛ぶように過ぎていきました。娘が9ヶ月を迎えた、2001年の9月から、私は職場に復帰しました。東洋学部が、私たちの時間割を重ならないように調整してくれたおかげで、私たちは夫婦交代で娘の面倒を見ながら、仕事を続けることができました。どちらかにどうしても抜けられない用事ができ、娘を連れて出勤することもしばしばでした。けれども、東洋学部は、そんな私たち親子を、いつも快く、温かく受け入れてくれました。娘を片手に抱いたまま授業をすることもありましたが、ほとんどの場合は、手の空いている秘書や、空き時間を持て余している学生が、娘の世話を買って出てくれました。大学のイベントなどにも、いつも子連れで参加しているうちに、気がつけば娘は学部のマスコットのようになっていました。まさに、東洋学部あっての私たちでした。素晴らしい同僚と学生に恵まれた私たちは、本当に幸せでした。お世話になった東洋学部の皆さんには、いくら感謝してもしきれないほどです。

〜豆知識〜
その5:ロシアの子育て、モンゴルの子育て

既に書いたように、ロシア、そしてモンゴルでも、おしめはまだまだ布が基本です。日本のおしめは短冊状で、おしりを包むようにして使いますが、ロシアやモンゴルでは、大きな正方形の布を、全身に巻きつけるようにして使います。モンゴルでは、赤ちゃんを布でぐるぐる巻きにするのですが、あれは移動式の遊牧生活から必然的にできたものです。ぐるぐる巻きにした赤ちゃんを家畜にくくり付けて移動をするのです。また、大抵の場合赤ちゃんは、寝ているときにビクッと動く自分の体に驚いて泣き出すのですが、体をぐるぐる巻きにされているとそれがないので、本当によく眠ります。これには、おなかの中にいたときの窮屈な状態に似ているので安心する、という説もあります。日本では、赤ちゃんの四肢は自由に、というのが常識ですから、体をぐるぐる巻きにするなんて!と思いがちですが、その効用も馬鹿にはできないのです。
祖母に聞くと、日本も昔はそうだったそうですが、布おむつが主流のロシアでもモンゴルでも、母親の洗濯の負担をできるだけ軽くするため、赤ちゃんは早くからトイレトレーニングに励みます。といっても、時間を決めて、できるだけ頻繁におまるに座らせるだけです。小さい赤ちゃんは、両手で支えてあげます。早い子は生後2週間から始めます。うまく出てくれれば、それだけおしめを洗わずに済むわけです。続けているうちに、赤ちゃんは、おまるの上にかかげられただけで、おしっこをするようになります。私もこの方法を使い、娘は2歳を迎える前に、完全におしめがとれました。
おしめかぶれには、すぐに治るとっておきの方法があります。とても簡単、人肌に冷ました番茶でおしりを洗うだけで、すっかりきれいになります。ただれが軽ければ1回できれいになりますし、少しひどくても2〜3回洗えば、すっかり良くなります。
下痢にはチーズ、鼻詰まり、結膜炎には母乳、蚊にはヨーグルト
〜 これがモンゴル式民間自然治療法 〜

それから、下痢にはチーズ(モンゴルの塩分がないもの)、鼻づまりや結膜炎には母乳、蚊にかまれたらヨーグルトを使います。中耳炎になったら、黒い布を電気コンロで暖めて耳に当てるだけで良くなります。車で遠出をするときは、小さな容器に水を入れて、おなかにくくりつけておくと、揺れて赤ちゃんのおなかにガスがたまることがありません。このように、モンゴルの子育て術には、薬に頼らない民間療法が盛りだくさんです。
もうひとつ、信じられないようなものに、夜泣きの対処法があります。モンゴルでは、赤ちゃんの夜泣きは、見慣れないものを見たり、何かに驚いて怖い思いをしたときに、それを夢に見ることから起こると考えられています。ですから、夜泣きをとめるには、その原因となるものを取り除けばいいのです。そのために使われるのが、金属の錫です。指先ほどの小さい錫を少量の油の中に入れて、溶けるまで熱します。そして、夜、月の光が入る部屋で電気を消して、「何に驚いたの?シュルシュルシュル」とおまじないを唱えながら、赤ちゃんの目の前で、錫の入った油を冷水の入ったお椀の中に注ぎます。熱い油が冷水の中に入るときにシュルシュルシュル〜!と激しい音がして、赤ちゃんはそれに驚きます。そして、油の中で溶けていた錫が、水の中で固まって、赤ちゃんがそれまで怖がっていたものの形を現します。このおまじないをすると、夜泣きはぴたりと止まります。まさか?!と思っているでしょう?でも、これはホントです!!私も自分の目で見るまでは半信半疑でしたが、やってみてビックリ!固まった錫の形は、例えば、少し前に中華レストランで食べたカニだったり、大きな毛皮の帽子をかぶった女性だったりしました。道でじゃれ付いてきた犬の顔や、知り合ったときに突然泣き出した、韓国人の先生のはげ頭が出るのです。これが日本でも効果があるかどうかはわかりませんが、夜泣きで困っているお母さんがいたら、一度是非試していだたきたい方法です。
ロシアでは、やはり子供が何かに驚かないように、その予防対策をします。例えば、外出の前に、椅子の四隅に水の入ったお椀を置いて出かけて、帰って来てから、その水で赤ちゃんの顔と手を洗います。こうすることで、外出時に驚いたことを、赤ちゃんは忘れると言われています。
モンゴルでは、非常に純粋かつ弱い存在である子供を、さまざまな方法で、病気や災難などをもたらす悪霊から守ります。まず、名前。モンゴルには「エネビシ(これじゃない)」とか「テルビシ(あれじゃない)」、「フンビシ(人ではない)」、「ノホイフー(犬の子)」、「ネルグイ(名無し)」などの、奇天烈な名前の人が大勢います。これは、生まれた子供が、悪霊に見つからないようにするひとつの方法なのです。
また、日が落ちてからの子連れの外出は、基本的にタブーですが、やむをえない場合には、子供の顔、主に鼻筋をすすで黒くして出かけます。こうすると、途中で悪霊に出会っても、人の子だと分からないのだそうです。さらに、「かわいいね〜」「いい子だね〜」というと、その言葉を聴きつけて悪霊がやってくるので、「まぁ、この子は何てブサイクなの〜」というのが、最高のほめ言葉なのだそうです。
(第6話に続く)

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ウランバートル便り

ブリヤートモンゴル(4)
モンゴル国立総合大学 日本語講師
 中 西 利 恵
 とうとうスーホーの国に来た!

 〜 モンゴルとの出会い 〜

  1999年7月9日早朝、私は車窓から、まだ明けやらぬ空の下に広がる、見渡す限りの草原を眺めていました。薄明かりの中にぽつりぽつりと浮き上がる白いゲルと、草を食む家畜の群れ。
 そこを年端も行かぬ少年が、馬を軽快に走らせる姿があります。「スーホだ!」そう思った瞬間、波のような感動が胸を押しつぶし、あまりの息苦しさに、私は両手で思い切り自分の体を抱きしめました。「とうとう来た!とうとうスーホの国に来た!」自分の中に眠っていた、モンゴルに対する強い憧れを自覚したのは、まさにその時、朝もやに煙る果てしない草原の向こうに、馬を駆る一人の少年を見たときでした。いつからか思い出すこともなくなっていたお話、小学校2年生の時、国語の教科書で読んだ『スーホの白い馬』が、モンゴルに対する私の憧れの原点だったのです。(ちなみに、モンゴル人に「スーホ」という名前はありません。一橋大学名誉教授の田中克彦先生が、その著書『名前と人間』の中で指摘されているように、これは斧という意味のモンゴル人の名前「スヘ」の間違いだと思われます。)
 ウランバートル駅に着いたとき、ホームはそぼ降る雨に濡れていました。ブリヤート大学東洋学部の同僚で、後の夫、モンゴル人のダワースレンが私を迎え、満面の笑顔で教えてくれました。「モンゴルではお客が来るときに雨が降っているのは、いい兆候なんだよ」
 思えば、あれは素晴らしい休暇を約束する雨だったのでしょう。それからおよそ2週間のモンゴル滞在は、非常に有意義な、忘れがたいものになりました。あれから毎年夏のモンゴルを経験していますが、それでも、あの夏ほど素晴らしかった夏はありません。今は夫となった彼も、「1999年は本当に楽しかったね」と口癖のように言っています。

「男の3ッツの遊び」相撲・競馬・弓術
    〜国家的祭典:ナーダム〜


 「ナーダム“Наадам”」とは、遊ぶ、楽しむ、という意味を持つ動詞「ナーダフ“наадах”」からできた言葉です。正確には「エリーン ゴルワン ナーダム“Эрийн Гурван Наадам”」といって、「男性の
 ナーダムのモンゴル相撲
3つの遊び」と訳せます。3つの遊びとは、モンゴルの国技である、モンゴル相撲、競馬、弓術を指します。昔は、戦での勝利や、狩の成功を祝って行われていたものですが、革命後、国家的な祭典として、毎年7月11日から3日間に渡って行われるようになりました。
 3つの競技の中でも一番迫力があるのが競馬です。出場する馬は2歳から
  6歳の馬で、走る距離もそれぞれ違います。何より驚かされるのは、騎手が皆、5歳から12歳の子供たちだということです。モンゴルの草原に住む子供たちは、3歳ぐらいから馬に乗り初め、5歳ではもう立派な馬の乗り手です。鞍も置かずに裸馬に乗り、広い草原を自由自在に駆け回る子供たち。本来人間が持っているべきたくましさが、まさにそこにあります。日焼けした顔に白い歯がまぶしい子供たちは、皆一様にはにかみ屋で、その瞳は子供らしい無邪気さに溢れています。そんな目をした子供たちが、日を追うごとに少なくなっている現代ですが、ただ、モンゴルの草原の子供たちにだけは、いつまでもそんな瞳をしていて欲しいと、心から思います。
 さて、競馬の話の続きですが、2歳馬のレースに出る馬たちは、まだ母馬の乳を飲んでいるような子馬です。ゴールが近くなると、ゴール先に母馬を置いて、子馬を呼ばせるのだそうです。母馬目指してゴールを切った子馬はそのまま母馬の乳にしゃぶりつき、騎手を務めた子供は、待っていた母親に抱きつくという、何とも微笑ましい光景が見られます。
 デンベーで遊ぶモンゴルの男たち 

 相撲、競馬、弓術がナーダムの基本ですが、最近では、家畜の骨を飛ばす競技「シャガァ」がナーダムの正式な競技として加わり、話題を呼びました。シャガァには、単純なものから高度な技術を要するものまで、いろいろな種類の遊び方があります。シャガァで遊んでいると、   
 日本の双六や、将棋、おはじきやビー玉遊びといった、昔から日本人に親しまれてきた遊びに共通する要素がたくさんあります。シャガァは遊牧民たちが、娯楽のない草原で、忙しい家畜の世話の合間に楽しむ遊びですが、その他にモンゴルの遊びと言えば、じゃんけん風の数え歌「デンベー」があります。これは歌を歌いながら指を使って数字を数え、相手とその数を競う遊びです。遊び方は単純ですが、意外に難しく、頭も使う高度な遊びです。
 真夏の午後、暑さをしのいでゲルの中に集まった老若男女と、負けたらアイラグ(馬乳酒)の一気飲みという罰ゲームつきで、この遊びをしたことが
 馬の乳搾りーその1:子馬に乳を吸わせる
 ありますが、それはそれは盛り上がり、時間が経つのも忘れるほどでした。アイラグは夏のモンゴルに欠かせない清涼飲料で、最近の研究によれば、冬の間に体にたまったコレステロールを下げる効果があるそうです。アイラグは、馬の乳を大きな皮の袋(最近は大きなポリ製の樽であることも多い)の中に入れ、木の棒で撹拌し  
 て、発酵させてつくります。棒による撹拌はかなりの肉体労働ですが、一人何回、というノルマがかかされるのだとか。草原のゲルを訪れれば、どの家庭でも新鮮なアイラグをご馳走してくれます。コップなどでケチ臭く飲むのではなく、大きなどんぶりに並々と注いでくれることがほとんどです。独特の臭いと酸味があるので、外国人の中には飲めない人も少なくないそうですが、一度飲むと癖になるおいしさです。アルコール度が少しあるので、1杯飲んだだけで、ビールを飲んだ時のような軽い酔いが回ってきます。酔いが回ってくると手元も怪しくなる。そうして遊びは益々盛り上がり、楽しくなっていくのです。
夫のダワはウランバートル育ちですが、8歳の頃から毎年夏になると、バヤンホンゴル県の草原にある父親の実家で、家畜の世話をしながら夏休みを過ごしたそうです。毎朝4時におばあさんに起こされ、どんぶりいっぱいのアイラグを飲んだ後、馬に乗って、夜の間放牧に出していたラクダの群れを追いに出かけるのが彼の仕事でした。夏と
馬の乳搾り(その2):乳が出始めたら子馬を離し、
乳を搾る。それは女性の仕事。
言えども、モンゴルの草原の4時は寒く、馬に乗っていると凍えるほどだそうですが、アイラグを飲み干し、馬を走らせる歌を大声で歌っていると、5分もしないうちに体中が火照ってくるのだ、と話してくれました。
 また、幼い子供はアイラグで洗って、裸のまま太陽の光にさらしておきます。こうしておくと冬の間も病気をしない、丈夫な子に育つのだそうです。
 


 
 大草原に観光名所の「亀石」
〜テレリジ訪問の楽しい思い出〜

 モンゴル国の領土は広く、その自然も一様ではありません。モンゴルというと、どこまでも続く草原を思い浮かべる人が多いと思いますが、それだけではないのです。この世の楽園と称されるような湖、フヴスグル湖や、ゴビ砂漠、西の山岳地帯など、その全てを見ようとすれば、いくら時間とお金があっても足りないほどです。
 1999年に初めてモンゴルを訪れた私が、訪れる場所として最初に選んだのは、首都ウランバートル市から約70キロにある、テレリジでした。ここは観光客が訪れる場所としてとても有名な場所です。テレリジにも、実は草原地帯と森林地帯とがあり、場所によって景観は全く違うのですが、多くの人が訪れるのが、「亀石」と呼ばれる巨大な岩山がある場所です。私も、そこを目指して出発しました。
 知り合いの車で出発したのはいいのですが、スピード狂の運転手が(モンゴルではほとんどの人がスピード狂。寿
テレリジの亀石前にて
命が縮みます)、道の真ん中に転がっていた大きな石を避けきれず、その石がオイルタンクを破り、ガソリンが漏れ始めました。やむなく車は引き返すことに。道の途中で降ろされた私とダワースレンでしたが、テレリジまではまだ半分も来ていません。ヒッチハイクをしようにも、車はすぐに来そうもないし、ひとまずボチボチ歩きながら、車が通りかかるのを待つことにしました。完全に出鼻をくじかれ、意気消沈している彼。何とか明るい話題を振って、その場の雰囲気を持ち直そうとしてみますが、不安なのはこちらも一緒。その後、途中で軽食をとったりして、道路沿いに歩くこと1時間、待ちに待った車が通りました。事情を説明すると、テレリジまでは行かないけれど、途中まで乗せてあげる、との有難い言葉。乗せてもらって先へ進みます。ここから先は車で行けない、という場所まで乗せてもらって車を降りて、これからどうするの?とダワに聞くと、ここからは馬で行くしかないよ、という返事。で、その馬は?!もちろん予約してあるわけではありません。私たちは再び、何もない草原の真ん中にぼんやりと立ちつくすことになりました。さて、トラブル続きの二人、無事に目的地にたどり着くことができるのでしょうか?!続きは次回のお楽しみ。


ピアノと馬頭琴合奏で魅惑の音色
〜感動した結婚式での友情演奏会〜

 ダワの友人エンフトゥルーは、ピアニスト。モスクワの音楽院を卒業後、モンゴル国立文化大学で教鞭を取りながら、モンゴルはもちろんのこと、海外へも赴き、演奏活動を続けています。その彼が、馬頭琴奏者と一緒に、私のために小さな演奏会をしてくれるというのです。スーホが、愛する白馬の骨、皮、筋、毛を使って作ったとされる馬頭琴。その音色を初めて聞くことができるのです。期待と緊張に胸を高鳴らせた私が通されたのは、国立文化大学の一
ピアニストのエンフトゥルー(左)と馬頭琴奏者のバトエル
デネ(右) 結婚式の披露宴で行われたミニコンサートにて
室でした。一台のグランドピアノと、音楽家の肖像画が数枚飾ってあるだけの、粗末な部屋でした。現れた馬頭琴奏者はダワーゾリグという名の、彼の教え子。まだ少年臭さが残る21歳の若者ですが、3歳の息子がいると言います。やがて、エンフトゥルーのピアノに合わせて、ダワーゾリグの馬頭琴が響き始めました。夏の午後の小さな音楽室に淀んでいた、重く湿った空気が、馬頭琴の調べに震えます。力強く軽快であるかと思えば、切なく哀しみに満ちた声を挙げる馬頭琴の音色に、私の心も震えました。ピアノと馬頭琴がかもし出す魅力的な世界に、いつが始まりでいつが終わりかも分からないほど、私ははまり込み、演奏会が終わった後も、しばらくぼぅっとしていました。
ヤマハのピアノを叩きながら、エンフトゥルーが言いました。「日本に行ったときに弾いたピアノも、これと同じヤマハだったんだけれど、日本とモンゴルでは音色が違うんです。日本は湿度が高いけど、モンゴルはとても乾燥しているからね。ヤマハのピアノは、湿度が高い日本の方が、とてもきれいな音が出るんだよ。」
 バイトがあるから、とダワーゾリグが去った後、物静かな彼は声を強めてこうも言いました。「音楽を志す優秀な若者がいても、彼らに活躍の場は保障されていないんです。運良く音楽の道に進むことができたとしても、それで食べていくことはほとんど不可能だし、結局、音楽を捨ててビジネスに走らざるを得ない。政府がもっと芸術に投資をしてくれたら・・・」
 それが芸術に限らず、教育、学問、全ての分野において言えることであることを、後に私は知ることになるのです。
 




豆知識 その4
 
 モンゴル民族の多様性
〜 地域ごとに方言と性格の相違 〜

モンゴル民族、と一口に言っても、その実際はさまざまです。モンゴル国のモンゴル人も、ブリヤート共和国に住むブリヤート人も、中国の内蒙古自治区に住む内モンゴル人も、広い意味では、皆同じモンゴル民族に違いないのですが、モンゴル、ブリヤート(イルクーツク方面も含めて)、内モンゴルのそれぞれの地域の中にも、微妙に異なる伝統や習慣、風俗を持った、さまざまな種族が暮らしています。それは、モンゴル語の諸方言にも現れています。
 面積:日本の約4倍 人口: 247万人 首都:ウランバートル
 人種:モンゴル人とカザフ人など 言語:モンゴル語,ロシア語もかなり通じる 宗教:ラマ教など
  更に詳細お知りになりたい方は : 
 http://www.mongoliatourim.net/link/index.html
  (モンゴル政府観光局日本支局)にどうぞ!
 例えば、 ブリヤート語(正確にはモンゴル語のブリヤート方言ということになりますが)には、標準語に定められたホリ方言(ホリ・ブリヤート族が話す言語)の他に、地域ごとに多くの方言があります。そして、西と東のブリヤート人の間では話が通じないと言われます。モンゴル国でも、西部地方のモンゴル人が話す言葉は、ハルハ方言と若干違います。「訛がある」とでも表現したらいいでしょうか。
 日本でも、「道産子はおおざっぱ」、「冗談の通じない東北人」、「東京はエエカッコシイ」、「大阪人は金にセコイ」、「九州男児は竹を割ったような性格」ひどいものになると「恨みの新潟」、「裏切りの福井」、「二枚舌の京都」などというものまであるようですが、モンゴル人の間でも、人の性格を地域で評価する傾向が強いように思われます。
 例えば、モンゴル国のハルハ・モンゴル人は、ブリヤート人のことを「17世紀にモンゴルの土地をロシアに売った裏切り者」で「ずるくて卑怯」と称します。ちなみにブリヤート人はこれを自覚していて、彼らが「我々は卑怯者の、モンゴル族のユダヤ人だから」などと笑いながら言うのを私は何度も聞きました。
 また、ハルハ・モンゴル人によれば、内モンゴル人は「ずる賢い中国人(モンゴル人の中国人嫌いは有名)よりもずるい」らしい。同じモンゴル人の間でも、例えば「中央県の女性は美人」だが、「ザフハン県の人間は必ず夫(あるいは妻)を裏切る」とか、「西のモンゴル人は好戦的で、すぐにケンカをふっかける」などなど、実にさまざまです。まんざらただの中傷でもなく、頷ける部分もあるのですが、そうでなくても国境に遮られて、意思疎通を図るのが難しくなっているモンゴル民族なのですから、あまりお互いを疎外しあうのも寂しいと思わずにはいられません。ですが、「アンタ方ブリヤート人は卑怯だから、信用できないっすよ」と、ハルハ・モンゴル人がおおっぴらに言い、それに対してブリヤート人が笑っているのを見たりすると、もともと大らかな彼らのことだし、あまり気にすることでもないのかなぁ、とも思います。いずれにせよ、モンゴル民族が、相手に気を使ってばかりの日本人とは、全く性質を異とする民族であることだけは確かなようです。
(第5話に続く、乞うご期待!)
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ウランバートル便り

その(3)ブリヤートと日本
 
モンゴル国立総合大学 日本語講師
 中 西 利 恵
ブリヤートと日本
 日本でブリヤートを知っている人は少なくても、ブリヤートで日本を知らない人はまずいません。小学校2年生、8歳のジーマでさえ、私が日本から来たと知ると、「あなたポケモンの国から来たの?」と嬉しそうでした。ポケットモンスターはロシアでも放映されていて、子供たちに大変な人気です。経済的に成功した同じアジア人の国として、ブリヤートの人々が日本に寄せる関心には並ならぬものがあります。
 ほんの数年前まで、外国人の出入りが禁止された閉鎖都市だったウラン・ウデですが、最近では世界各国との間で、様々な経済的・文化的な交流が盛んに行われています。日本もその例外ではありません。1999年から毎年、モンゴル民族の旧正月のお祝い『サガルガン(白い月)』の時期には、ハバロフスクの日本総領事館と、ブリヤート共和国文化庁との協賛で日本映画祭が行われています。ウラン・ウデ市内の映画館で1週間、1日3本の日本映画が無料で公開されるのです。この期間中、映画館の前にはいつも長い行列ができます。館内には日本の文化を紹介するコーナーも設けられ、日本人形や、お城の模型、日本の食卓などが展示されます。
  
活発な日本との文化交流
〜オペラ劇場は日本人抑留者が建設〜
 日本・ブリヤート間の文化交流の中で一番印象に残っているのは、1999年9月に行われた、東京演劇アンサンブルのウラン・ウデ公演です。この公演には私も微力ながら、現地スタッフとして参加させていただきました。演題は坂口安吾の『櫻の森の満開の下』。東京演劇アンサンブルは、演出家の広渡常敏氏を軸に精力的な演劇活動を展開している、ブレヒト劇中心の前衛劇団です。それまでにもニューヨーク、ソウルを始め、数々の海外公演を経験しており、ロシアでの公演も、93年のモスクワに次いで2度目。ウラン・ウデ公演の後には、演劇の本場ロンドンでの公演を控えていました。でも、いくらロシアが芸術を愛する国だとは言っても、ブリヤートはシベリアのはずれ。日本からの交通が不便なことは既に述べましたが、この地にコンピューターや最新の技術が使われている日本の演劇を持ち込むことは至難の業です。それを承知で、公演を決心した広渡氏の決断力もさることながら、それを実現に導いた、劇団の方々の熱意には並ならぬものがありました。
ソビエト広場から見た
国立アカデミー・オペラ・バレエ劇場(左側)

 劇団が公演場所に選んだのが、町の中心、ソビエト広場のそばにある、国立アカデミー・オペラ・バレエ劇場−客席800席、東シベリア・極東唯一の本格的オペラ劇場−でした。実はこの劇場、当時シベリアに抑留されていた日本人
抑留者の手によるものなのです。ウラン・ウデ市内には、この他にも日本人捕虜によって建てられた建築物がありますが、オペラ・バレエ劇場はその中の最たるものとして、市民にも広く親しまれている場所です。        
                                
 さて、公演の3ヶ月前、照明と大道具担当の方が下見に来られました。劇場の施設を見たお二人の口からため息混じりに出た言葉は、「これは・・・博物館並みの古さだね」というものでした。聞けば、劇場の設備は建設された当時から変わっていないとのこと。特に照明担当の大鷲さんは、この歴史的に古い劇場で、お芝居に使う微妙な明かりをどう出したらいいのか、途方に暮れておられるようでした。9月に本隊が到着して、3日間で初日までの準備をしなければならないのに、最初から問題が続出。使えない音響器具、年代ものの器具を壊さ
東京演劇アンサンブルの『櫻の森の満開
の下』(ロンドン公演よりー撮影:山崎慶子
提供:http://www.tee.co.jp 無許可の転載
を禁じます)
れてはと、日本側の行動にいちいち文句をつけるブリヤート側の照明係、徹夜での作業がつづく大道具・・・挙句の果てに、220ボルトの電圧を100ボルトに変換する変圧器が初日を目前に燃える始末。日本側のスタッフは連日の疲労と焦りとで、もうキレキレ。絶望的な雰囲気が劇場中に満ちていました。ですが、それがロシア。ロシアにあって、問題なしで済むことなどないのです。そして、そうしたトラブル、アクシデントに万事休す、となるかと思えば、土壇場で何とかなるのが、これまたロシアならでは。私も5年のロシア生活を経験して、トラブルには強くなりました。どんなに絶望的な状態でも、土壇場で何とかなるのですから。
 結局、舞台稽古なしで初日を迎えることになり、準備不足が裏目に出て、幕が上がらなかったり、降らす櫻の花びらが途中で足りなくなったり、主役の女優さんが舞台から落ちたり、演劇のプロの皆さんにとっては甚だ不満な幕開けとなりました。
しかし、2日目、3日目はトラブルもなく、劇団の皆さんもようやくほっとできたようでした。それにしても驚かされたのは、現地の人々の熱狂ぶりでした。客席は3日間の公演期間中、常に満席。いえ、200%は入っていたのではないでしょうか。劇場が誕生して以来、最も多くの観客が入った、歴史的な出来事となりました。それに、劇が終わった後の拍手のすごかったこと!!ブリヤートの人々の喜びように、それまでの苦労も吹き飛ぶようでした。
 この出来事を通じて学んだのは、通訳の難しさでした。文化も習慣も違う2つの民族が出会ったとき、そこに生じるのは言葉の問題だけではないのです。お互いの常識、思考方法が違えば、一方の言葉を伝えてもそれが他方には理解できないということが起こります。トラブルを抱えて、険悪なムードが高まっていく中で、日本人側の言い分も、ブリヤート側の言い分も理解できる私は、双方を上手くつなぎとめられない自分の能力不足を痛感しました。また、朝から夜中の2時ごろまで通訳をしていて、終いに、日本語を聞いても、ロシア語を聞いても、何の言葉も出てこなくなる状態というのを初めて体験しました。頭の中が真っ白になって、誰が何を言っているのかも分からなくなってしまったのです。そんなことも含めて、非常に貴重な経験をさせていただいたことを、東京演劇アンサンブルの皆様と、ブリヤート政府の文化庁、そしてこの文化事業をバックアップしてくださった、国際交流基金に、改めて深く感謝したいと思います。
 
 
〜思い出の外国人専用寮生活〜
 ―中国・モンゴル・フィンランド・フランス・韓国人と交流―

 
 私が住んでいたのは、大学の寮の、外国人専用の宿舎でした。大学側は「ホテル」と呼んでいましたが、5部屋に台所とシャワー、トイレが共用の、いわゆる共同宿舎でした。でも、学生の住む宿舎とは違って、毎日お掃除のおばさんが掃除に来てくれるし、台所用品など必要なものは全部揃っているし、要求しないと持ってきてくれないけど、各部屋にテレビはあるし、ほうっておくとゴキブリが大発生したり、年に1回くらいはネズミが鼻を覘かせる事があるけど、比較的清潔で快適な住まいでした。ここには、私のように海外から主に言語などを教えに来た外国人の先生の他に、ブリヤートで学位を取るために外部から来た人(外国人を含む)や、各種の研究員が入れ替わり立ち代りやってきます。1998年9月から2002年6月までのおよそ4年間を、私はここで過ごしましたが、その間に知り合った外国人は、中国人、韓国人、モンゴル人、内モンゴル人、フィンランド人、フランス人で、2,3日宿泊しただけの人を入れれば、その数は数え切れないほどです。
 
 印象に残る抗日家・キム・との出会い
 その中でも思い出深いのは、1999年の春から秋にかけての半年間でした。その頃、寮にはモンゴル人のソフトボールの先生ハムスレン(女性、現在も寮に在住)と、後に私の夫になる、同じくモンゴル人のダワースレンと、私の3人しかいませんでした。1月までは中国人の先生がいたのですが、帰国してしまい、さびしくなったなぁ、と思っていた矢先にやってきたのが、韓国人のキム・テー・ソンでした。キム・テー・ソンは私より2歳年上の、敬虔なプロテスタント。ブリヤートへ来た目的は、やはり東洋学部で韓国語を教えるためでした。彼は私にとって初めての韓国人。ロシアで韓国人と一緒に住むことになるとは思っていませんでしたが、お隣の国だし、共通の話題もあるかも、と楽しみにしていたら、実は!彼は抗日家。
 
突然始まった最初で最後の反日の議論!
 知り合った当日の自己紹介は漢字で名前を書きあったり、彼が知っている日本語の単語を披露してくれたりで、非常にいい感じだったのですが、次の日、近くの市場までの道を案内している途中、突然彼が日韓の歴史の話を始め、韓国を侵略した日本を一方的にひどく攻め始めたのです。私は彼の話に異論を唱えるどころか、話を理解できるほどの知識さえ持ち合わせていませんでした。答える術を持たない私に、彼は容赦なく日本に対する非難の言葉を浴びせ続けました。その時の私には、彼が1時間も2時間も日本非難をしているように思われましたが、実際はせいぜい15分ぐらいだったでしょう。そのうち、言いたいことを言い尽くしたか、あるいは何も言い返せない私に呆れたのか、キム・テー・ソンは急に話題を変え、それまでの調子に戻りました。彼がその時話したことは、今はもう記憶にありませんが、それでもはっきり覚えているのは、一個人にこれだけの憎悪を抱かせるような日韓の歴史が歴然とあるということへのショックと、それを知らない自分の無知に対する情けなさでした。あれから5年経った今も、日韓関係史を詳しく勉強する時間を持てないでいますが、将来、日本に帰国することがあれば、必ず勉強するつもりでいます。
〜ロシア語版韓国歴史書プレゼント〜
 愛国心の薄い私ですが、あそこまで日本のことをボロクソに言われれば、腹も立つし、悲しくなります。またそれを何でこの私に、と思うと余計やりきれない気持ちは募ります。その上、なんでお前は何も言い返せないんだ、と思うと気分は最悪。こんなに日本が嫌いなキム・テー・ソンと、これからどうやって毎日顔を突き合わせて暮らしていけばいいのだろうと、私は途方に暮れました。けれども、彼が私を相手に日本を非難したのは、それが最初で最後でした。その日の夕方、ロシア語で書かれた韓国の歴史の本を私に手渡し、読んでね、と言ったのを最後に、彼と私との間に歴史の話がされることは二度とありませんでした。
 
シベリア鉄道

 明るく、冗談が上手で、心優しいジェントルマンだったキム・テー・ソンはたちまち私たちに馴染み、寮の生活はますます楽しいものになりました。栄養士のお母さん、調理師のお兄さんを持つ彼はお料理も上手で、いつも街を探検するついでに見つけてきた材料で、それはおいしいプルコギやキムチを作って、ご馳走してくれました。またキム・テー・ソンが、お料理だけでなく、英語、ドイツ語、ロシア語に精通していた秀才であったことも、ここで付け加えておくべきでしょう。
 
 思い起こせば、その頃私たち4人はまるで家族のように暮らしていました。仕事から帰ってくると、必ず誰かがご飯を作って待っていてくれます。私もいろいろ頑張って作ったけれど、当時はまだ現地で調達できるもので何が作れるかも知らない頃で、作ってもあまりおいしくなかったし、ご馳走されることの方が多かったと思います。
台所で皆で楽しくご飯を食べた後は、時を忘れて語り合いました。3メートル四方の小さな台所は私たちの憩いの場で、語り合いが夜半を過ぎることなどしょっちゅうでした。

フィンランドからは毒舌金髪美人・パウリナ到来
 6月になり、フィンランドからパウリナという女性が来ると、寮はさらに明るくなりました。当時28歳の彼女は、金髪のかわいい顔に似合わず毒舌家。初めこそ、熱いシャワーがないことを知って(第一稿参照)泣きべそをかいていましたが、慣れてくるにつれ、毎日のように「この国はおかしい!」と怒りの声を上げていました。「女のクセにタバコを吸うな」と言うキム・テー・ソンに、「説教するなら自分の国でしな!」というパウリナ。「君みたいのは女とは言えない」「アンタは頭が古すぎる」と言いあっていた二人ですが、その二人にもうちょっとで恋が芽生えそうだったことも、ひそかに付け加えておきましょう。
 その年の秋を迎える前にパウリナが、そして冬の始まる頃にキム・テー・ソンが帰国してしまい、寮は再び二人のモンゴル人と私の三人に戻りました。そのキム・テー・ソンが帰国する前夜、ダワースレンと台所で語り合っていたときに言ったことを、最後にそっと付け加えておきます。
 「僕は以前、日韓の歴史のことでリエを相手に日本を攻めたことがあるけれど、日本の技術が実は韓国よりも優れていることは分かっている。それに世界で一番良い妻は、韓国人の女性と日本人の女性だ。リエのことも僕は大好きだよ」。それをダワから聞かされたとき、私の胸は熱くなり、思わず涙が溢れました。
 現在はソウル市で会社員をしているキム・テー・ソンですが、いまでもメールを送りあう大切な友達です。
 
 
 
 豆知識〜ブリヤート共和国って???
 
〜仏教・シャーマニズム・ロシア正教が混在〜

 この国は、西のカルムイク共和国、トゥヴァ共和国と並ぶ仏教国でもあります。各地にダッツァンと呼ばれるチベット仏教の寺院があり、人々の信仰を集めています。元々シャーマニズムが強かった土地でもあるのですが、このシャーマニズムが今では仏教と深く結びついた形で人々に受け入れられています。仏教僧が、同時にシャーマンでもある、ということさえあるのです。ブリヤートの宗教は仏教とシャーマニズムだけか、と言いますとそうではなく、ロシア正教の教会ももちろんあります。仏教、シャーマニズム、ロシア正教、この3つがお互いを束縛することなく、またそれぞれがなくてはならない存在として、人々の心と生活とを支えています。
ウラン・ウデ市近郊にある
イヴォルギンスキー・ダッツァン
提供:http://www.buddhism.org.ru/

参考資料
仏教美術のサイト:http://online.stack.net/~alex/glossary.htm#top/

〜ブリヤートをもっと知りたい人のために〜


ロシアの仏教サイト:
http://buddhism.org.ru/
ブリヤートの仏教サイト(英語ページあり):
http://buddhism.buryatia.ru/
東京演劇アンサンブル:
http://www.tee.co.jp/



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ウランバートル便り

ブリヤートとモンゴル(2) 
モンゴル国立総合大学 日本語講師
 中 西 利 恵
問題だらけの日本語教育
私が働くことになったブリヤート国立大学東洋学部は、元々ノボシビルスク大学の分校でした(1992年創設)。1995年に、この分校と、ブリヤート国立師範大学(1932年創立)が合併して、現在のブリヤート国立大学ができたのです。ブリヤート国立大学には、3つの研究所、14の学部、2つの分校(ウスチ−オルディンスク、ブリヤート自治管区、モンゴル国ウランバートル市)があり、高い専門性をもつ大学として、東シベリアの高等教育機関の間で中心的な役割を果たしています。またその歴史の長さでは、ロシア国内の10大学のひとつに入るとも言われています。
東洋学部には、言語学、歴史学、哲学の3つの専攻があります。学生たちは、これらの1つを専攻とし、中国語、モンゴル語、トルコ語、チベット語、韓国語、日本語、英語から、専攻語を1つ、副専攻語を2つ学んでいます。
東洋学部の先生方・学生たちとピクニック
東洋学部で日本語が学ばれるようになったのは、1995年から。第一回に登場したジミンゴワ先生一人でのスタートでした。97年に黒川さんが初の日本人教師として赴き、私が着任した時は、日本語専攻の3年生と2年生がそれぞれ10数名いました。でも、そのレベルは決して高いとはいえませんでした。それもそのはず、きちんとした教科書もなければ、聴解資料はゼロに等しく、おまけに毎年先生が変わっていたというのです。学生たちは難しい漢字を知っているかと思えば、基本的な文法事項を知らなかったりします。中にはカタカナが読めない学生までいました。当時私の手元にあった教科書は、日本から持ち込んだアルクの『にほんご1・2・3(上)(下)』と、黒川さんが譲ってくれた国際交流基金の『日本語初歩』だけ。今思えば、よくこれだけで日本語を教えるつもりだったと思います。その上、その頃の私のロシア語力と言えば、自己紹介がやっと満足にできるほど。名詞、形容詞、動詞、を辞書で引くところから、授業の準備が始まりました。学生たちに分かって欲しい一心で、家へ帰ってはひたすら授業の準備ばかりしていましたが、十分なノウハウを持たず、言葉の足りない私の授業は、きっと全然わからないものだったに違いありません。それでも学生たちは不平も言わず、説明に何度もつまづく私に根気強く付き合ってくれました。それから半年ほどの間に、ロシア語は目覚しく上達しましたが、それはひとえに、私の間違ったロシア語をひとつひとつ直してくれた学生たちのおかげです。
日本語を教えるに当たって何よりも苦労したのは、後にも先にも教材です。教科書が2冊しかなかったことは既に述べましたが、その2冊はもちろん1部ずつしかありません。それでは教科書をコピーしよう、と思っても、教科書全部をコピーするなんてとんでもない!というお達しが。仕方がないので、毎回その日に勉強する事項をワープロで打って、人数分コピーしていたのですが、それも3回ほどでクレームがついてダメ。「原稿を学生に渡して、自分たちでコピーさせなさい」とのこと。大学の授業でも、何かの会議でも、目の前に膨大な資料が準備されていて当たり前だった日本人の私には、これはとても抵抗がありました。言われた通り、学生にコピーをさせたりもしましたが、回数が重なると学生にも気の毒です。結局これらを全て板書でまかなうことになりました。授業の半分が板書に費やされる、非常に効率の悪い授業でしたが、どうしようもありません。ここではコピー機は大変な貴重品。インク代もとても高いので、どうしても必要な時にしか大学のコピー機を使うことは許されないのです。
その後、1999年から国際交流基金から教材の寄贈が受けられるようになり、教科書はもちろん、聴解教材や辞書、参考書などが次第に増えていきました。2000年に学部長が交代してからは学生専用のコピー機が導入され、有料ではありますが、必要なだけ教材をコピーすることができるようになりました。また、それまでは日本語を専門に勉強するのは、歴史学科か哲学科の学生だったのですが、2001年に極東言語学科が創設され、日本語を言語学の方面から専門的に勉強する学生の募集が始まりました。98年には学部のおまけのようだった日本語の存在感がぐっと増したのです。それと同時に優秀な講師の数が年々増え、一時は私を含めて6人の講師が日本語教育に当たっていました。気がつけば一人一人の学生が教科書のコピーを手にするよ
東洋学部の教え子たちと(筆者中央)
うになり、学生のレベルはめきめき上がりました。まだまだ教材の数は十分とは言えませんが、ブリヤートに来たての頃の、あの苦労がウソのようです。年を重ねるごとに日本語を教えることにも慣れ、学部内で弁論大会を催したり、日本語での寸劇を準備したり、楽しく授業をしているうちに月日は飛ぶように過ぎていきました。そして2003年5月には、我が東洋学部の学生が、イルクーツクで開催された弁論大会で優勝する、という快挙を成し遂げたのです。
残念ながら2003年7月にブリヤートを離れることになりましたが、素直で、率直で、明るい東洋学部の学生たちの笑顔は、いつも私の心にあります。モスクワや、極東に比べるとまだまだレベルは高いとはいえませんが、彼らの日本語に対する熱意、日本を慕う気持ちは、他のどこにも負けません。読書好きで勉強熱心な彼らの中から、素晴らしい日本語専門家が誕生することを確信すると共に、その日が一日も早く訪れることを祈ってやみません。
頑張れ!私のかわいい教え子たち!!
 
豆知識 ブリヤート共和国って???
 
その2:気候
 ブリヤート共和国は「陽の当たるブリヤート<Солнечная Бурятия>」と呼ばれています。その名の通り、この土地の空が曇っていることはほとんどありません。雨は春と秋にわずかに降るのみで、冬の積雪量も多くありません。冬でも抜けるような青い空が広がり、雪と氷に閉ざされたシベリアに住む人々の心に、一条の光をもたらします。これが西シベリア、例えばノボシビルスクなどになると、冬中雪が降り続き、その間はずっと灰色の曇り空が続きます。3日ほどノボシビルスクに滞在したことがありますが、その曇り空にうんざり。ブリヤートの青い空が恋しくなったものでした。降水量が少ないので、空気は乾燥しています。でも、近くにあるバイカル湖のおかげで、それでも少し柔らかい感じ。一方、現在住んでいるモンゴルは、ブリヤート以上に乾燥しています。ここに住み人たちに皺が多いのも頷けます。
シベリアにももちろん四季があります。雪解けの春、短い夏、黄金の秋、そして長い冬です。初雪が降ってから、最後の雪が消えるまで6ヶ月から7ヶ月。つまり一年の半分が冬だということになります。日本とは違い、シベリアの季節は冬を基準に回っているようにも思えます。
下は厚手タイツを2重にはいた上にズボンをはき、分厚い靴下を2重に履いて、毛のついたブーツを履きます。上はババシャツの上にセーターを2枚着て、ダウンジャケットを羽織ります。温かい帽子の上にフードをかぶり、口と鼻をマフラーでぐるぐる巻きにして、手袋を2重にはめたら、冬のお出かけスタイルの完成です。
一番寒さが厳しいのは1月末。毎年必ず1月の末に、零下35度以下の日が1週間ほど続きます。この寒さの中を5分も歩けば、目元だけ出した顔や、手足の指先がちぎれるように痛み始めます。一度など耳が凍傷になった事がありました。軽症だったので、2、3日耳が腫れ上がるぐらいですみましたが、学生たちには随分笑われました。
郊外の丘の上で大学時代の友人と(筆者右)

冬の日、外出前に人々がすることは何だかお分かりですか?それは窓の外を眺めることなのです。といっても景色や天気を見るためではありません。道行く人を見るのです。人がゆっくりと歩いていたら、今日はあまり寒くない。急いで歩いていたら寒いということだから、暖かくして出かけなければならないのです。
シベリアの春は2月の終わり、『サガルガン(白い月)』と呼ばれる旧正月のお祝いが終わった頃に訪れます。でもその足は本当に遅く、待てど暮らせど暖かくなりません。やっと来たかと思えば、また冬に逆戻りしたり。ようやく気温が上がり、積もっていた雪が少しずつ解け始めると、町中がぬかるみだらけになります。その上嵐のような強い風が吹き荒れて、目も開けられないほど。口の中も砂だらけになるし、1年で一番汚い季節です。夏・秋と蓄えていた元気が底をついてきて、体力的、精神的にも最も辛い季節といえます。 
冬の間丸裸だった木に、若葉が眩しく映えるようになると、夏の訪れが近い証拠です。人々が通りに溢れ、街は一気に活気づきます。6月ごろには夜の11時を過ぎても明るいので、夜更けまで友達と連れ立って、よく散歩をしたものです。
ある時、こんなことがありました。夜の12時ごろ、住んでいた寮の窓からふいに外をみると、若い男女が抱き合い口づけを交わしています。おお、これは!と思って見ていると、それが長い、長い!このことを翌日学生たちに話すと、彼らは笑いながら、「冬の間我慢していたからだろうね〜」と言います。「冬の間はキスができないの?」と聞きますと、「そうだよ、だって唇が凍っちゃうもの」ですって!恐れ入りました!!
東シベリアの空気は乾燥しているので、短い夏は爽やかで、日本のような蒸し暑さとは無縁です。30度を超える日は数えるほどで、それも日中の数時間だけ。朝夕はセーターなしでは過ごせないほど冷え込みます。避暑にはぴったり、大変過ごしやすい素敵な季節ですが、蝉の声が聞こえないので、少しさびしい感じもします。川や湖の近くに住んでいると、日本の蚊の2倍ほどの大きさのシベリア蚊が襲ってきます。かまれてもそんなに痒くなりませんが、何しろ大きいので、最初の頃は、本当に怖かったのを覚えています。人々の多くは短い夏を郊外の別宅(ダーチャ)で過ごします。ほとんどの人がここに家庭菜園を持ち、新鮮な野菜をたっぷり食べて、長い冬に備えます。夏にどれだけ英気を養ったかで冬の越し方が違ってくるのです。
9月になると木の葉が日に日に色づき、季節は秋へと突入します。シベリアの夏は短いけれど、秋は更に短くて、「あ、秋かな?」と思ったら、大抵もう終わっています。プーシキンをして『黄金の秋』と言わしめたロシアの秋、それがシベリアで見られるのはほんの数日なのですが、町中の木という木が真黄色に染まって、本当に見事です。夢のような数日が過ぎると、再びあの長い冬がやってくるのです。
秋のバイカル湖

 


〜ブリヤートをもっと知りたい人のために〜
・ ブリヤート国立大学公式サイト:http://www.bsu.ru(英語ページあり)



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ウランバートル便り

ブリヤートとモンゴル(1) 
モンゴル国立総合大学日本語講師
                         中 西  利 恵  

ブリヤートとの出会い
 海外で日本語を教え始めてから、早6年が過ぎようとしています。現在モンゴル国ウランバートル市に住んでいますが、それ以前、1998年9月から2003年7月までのおよそ5年間を、私はロシアのブリヤート共和国の首都、ウラン・ウデで過ごしました。「ブリヤート?初めて聞くなぁ」という方もいらっしゃるのではないでしょうか。何を隠そうこの私も、6年前、その名を初めて耳にするまで、この国の存在すら知らなかったのです。全く見知らぬ国であったこの国が、私の人生にこれほど深く関わり、第二の故郷とも呼べる、忘れがたい土地になるとは、夢にも思っていませんでした。
オペラ・バレエ劇場の前で、
 大学時代の友人と(筆者右)
 一通の手紙が、私の前に差し出されたのは、1997年、年の瀬も迫る頃でした。ブリヤート国立大学で1年間日本語教師をしていた、黒川房恵さんという広島大学の卒業生から、後任を探している旨の連絡があったのです。当時私は広島大学大学院の修士課程に在籍していました。指導教官の井上先生が、「ロシアだけど、どう?」と言ってくださったのが始まりでした。
 元々ロシア語を学びたくて外国語大学に進み、4年間ロシアのことを勉強したはずなのに、終わってみれば全く身についていないロシア語。その頃から深刻だった就職難では、「ロシア語を生かした職業に」なんて夢のまた夢。どこかに就職できたとしても、それでロシア語を忘れてしまいたくない、と大学院に進んだものの、研究者として学問を続けていく自信もなく、行く先が見えないまま、「将来」に怯える毎日を送っていました。
 そんな時に舞い込んだ知らせでした。かねてからロシアへいく機会を探していた私にとって、願ってもないような話でしたが、行く決心がつくまでには随分迷いました。まず日本語教師としての知識が自分にはないこと、それに黒川さんの手紙には、彼女が住んでいるウラン・ウデが恐ろしく住みにくく、またブリヤート国立大学の体制が、非常に官僚主義的で不便極まりない云々が、綿々とつづられていたからです。そんな土地で上手くやっていけるだろうか、日本語教師がちゃんと務まるのだろうか、そして教師をしながらロシア語力を伸ばすことが果たして可能だろうか・・・と結論を出せなかったとき、「こうしよう、というはっきりした目的がないのなら、行っても無駄です。中途半端な気持ちで行くならやめなさい」と先生から一喝され、ようやく行く決心がついたのでした。あの先生の一喝がなかったら、今の私もなかったでしょう。あの先生の一言には今でも感謝しています。井上先生、本当にありがとうございました。
 それからの半年間は、現地での問題を最小限に抑えるために、黒川さんと毎日のように連絡を取りながら、渡航準備に当たりました。日本語教育のイロハも知らずに行くわけにも行かないので、雑誌を買って勉強したり、ボランティアで日本語教師をしたりもしました。そして、1998年8月26日。ついにブリヤートへと旅立つ日がやってきました。

着いたはいいが・・・
 ブリヤートへの交通路は主に二つです。まず新潟空港からイルクーツクへ飛び、そこからおよそ10時間かけて鉄道で行く方法。この便、98年夏までは年中飛んでいたようなのですが、現在は夏季限定となっています。最近は、イルクーツク−ウラン・ウデ間をマイクロバスで往復する方法もあるようですが、かなりの悪路なので、初心者には進められません。もう一つは新潟空港からハバロフスクまで飛び、そこから2日かけて鉄道で行く方法。シベリア鉄道をたっぷり満喫できますが、快適さに慣れた日本人には多少辛い旅かもしれません。あともう一つは、モンゴルのウランバートルへ飛び、そこから24時間かけて鉄道でロシア入りする方法。航空運賃は多少割高ですし、モンゴルのビザを取る必要もあるので煩雑ですが、モンゴルとロシアの両方を楽しみたいという方にはオススメのルートです。
 98年のその時、私はイルクーツク経由でロシアに入りました。イルクーツクまでは黒川さんが迎えに来てくれました。ウラン・ウデまですぐに連絡する列車がないので、イルクーツクで1泊して、翌朝早朝の列車に乗り込みました。
今でもよく覚えているのは、8月だと言うのにとっても寒かったこと。涼しいとは聞いていたものの、Tシャツの上にジージャンしか羽織るものを持っていなかった私は、到着早々危うく風邪をひきかけました。でも、車窓から眺めたバイカル湖のきれいだったこと!列車がバイカル湖畔を走ったのは午後の3時ごろ。早くも傾きかけた陽光が水面に反射してキラキラと輝いています。まるでロシアのおとぎ話、『金の魚』の鱗が光っているようでした。その美しさに目を奪われながら、ついにロシアに来たのだという実感が胸にこみ上げました。
 バイカル湖:提供http://test.baikaltravel.ru/
ところが、素敵なことにうっとりしていられないのが、ロシアという国。黒川さんのおかげで、到着しても部屋がない?!という事態は免れましたが、何と、お湯がない?!実はここ、地域によっては、夏中お湯がでないのです。結局お湯の供給があったのは10月22日で、それまでは知り合いの家に貰い湯に行くか、ポットでお湯を沸かして体を拭くことしかできませんでした。おまけにお湯の供給があるまで部屋のヒーターが使えなかったので、日増しに寒さが厳しくなってくる10月には、部屋の中でダウンジャケットを着て、かじかむ手に息を吹きかけながら授業の準備をしたものです。
 さて、それから1週間後の9月2日、黒川さんからみっちりとウラン・ウデ、そして勤務先のブリヤート国立大学東洋学部の情報を叩き込まれた私の初出勤の日がやってきました。この日は授業はなく、先生同士の顔合わせと時間割の発表があるとのこと。東洋学部は、当時住んでいた大学の寮から歩いて約30分。道順の記憶は怪しかったのですが、一度黒川さんに連れて行ってもらっていたので、大丈夫、と高をくくって出たのが間違いでした。行けども行けども目的地らしいものは見えません。こともあろうか、この大切な日に、私は道に迷ったのです。おまけに雨まで降ってきました。傘を持たずに出てきた所にシベリアの雨が冷たく降り注ぎます。例のごとくシャツにジージャンを羽織っただけの体が急激に冷えていきます。道行く人に道を聞こうと周りを見渡した途端、犯罪率ロシアワースト2、という言葉が頭をよぎり、道行く人(なぜか男の人ばかりだった)が皆犯罪者に見えてきます。今でこそ、ロシア人やブリヤート人の姿を見ると、まるで同郷人に会ったかのような親しみを覚えますが、その頃は、皆一様に眉根に皺を寄せて歩く背の高いロシア人や、大きないかつい顔に細く険しい目のブリヤート人が、それは恐ろしく見えたものです。『邦人の日本語教師、ロシアで誘拐され遺体で発見』なんて新聞の見出しまでが目の前にちらつき、道を尋ねるどころではありません。泣き出したい気持ちで時計をみると、会合の時間はすっかり過ぎています。結局そのまま同じところを1時間半もウロウロした挙句、ずぶぬれになりながら、やっとのことで寮にたどり着きました。
部屋に帰ると、同じ学部の日本語教師で内モンゴル出身のジミンゴワ先生(現在は大阪外国語大学大学院に在学中)が心配して待っていました。事情を話して謝る私を、大丈夫、大丈夫と慰めてから、ジミンゴワ先生は笑いながら、「それがね、すごくおかしかったんですよ」と言います。「何がですか?」という私に、先生は今日の会合の一部始終を話してくれました。
ロシア語を知っている日本人が来た、というので、当時東洋学部の学部長だったヤングトフ先生が、先生方を前に満面の笑顔で、朗々と、「それでは、新しい日本人の先生を紹介します!中西利恵先生!!」と私の名前を読み上げたところ、返事がない。一瞬の静寂の後、今度は血相を変えて、「何でいないんだ!ジミンゴワー!!」かわいそうなジミンゴワ先生は、一生懸命「私は知りません」と繰り返したとのことでした。ヤングトフ先生には、大変お世話になり、かわいがってもいただきました。元々気さくでおおらかな方なのですが、学部長としては、とても厳しい方でした。その後心臓を患い、学部長職を退かれてからは、専門の仏教学の研究に専念しておられますが、時折学部に姿を現す先生の表情に、以前の厳しさが微塵もないのに驚かされました。学部長という仕事は、想像以上に過酷なものだったのでしょう。
 そんなこんなで出勤第一日目をすっぽかしてしまった、危うく頼りない私の日本語教師生活が、こうして幕を開けたのでした。

                             
豆知識〜ブリヤート共和国って??? 
 
バイカル湖:提供http://test.baikaltravel.ru/ ブリヤート共和国国旗提供:http://geraldika.ru/

                                    
??? その1:地理・言語・民族
  ブリヤート共和国は東シベリア、『シベリアの真珠』と呼ばれるバイカル湖の東にあります。新潟からの航空便があるイルクーツクの、バイカル湖をはさんだ対岸、とい えば分かりやすいかもしれません。西のモスクワから東のウラジオストークまではシベリア鉄道で7日間ですが、ブリヤート共和国の首都、ウラン・ウデ市は、モスクワまで4日、ウラジオストークまでは3日のところに位置します。地図を見ても、東西に広大な領土を持つロシア連邦のほぼ真ん中にあることが分かります。首都のウラン・ウデはブリヤート語で『赤いウデ(ウデ川という川が街を流れている)』という意味です。
チュクチ族の住居と衣服:市内の野外民俗学博物館にて

ブリヤート語は、現在のモンゴル国で話されているモンゴル語(ハルハ方言)と系統を同じとする、モンゴル諸語のひとつです。今でこそロシア人人口が全体の7割近くを占めますが、ここは本来ロシア人の土地ではなく、現在の人口113万5千人の2割強を占めるブリヤート人は、私たちと同じモンゴロイド、そのDNAは日本人に最も近いとも言われています。その他にもツングース のエヴェンキ人や、チュルク語族のカザフ人、タタール人などを含むたくさんの民族が暮らしています。          
    

ロシア全土におけるブリヤート共和国:提供http://suek.ru/


ブリヤートをもっと知りたい人のために
ブリヤート共和国公式サイト(英語ページあり):http://gov.buryatia.ru:8080/
ウラン・ウデ市サイト:http://www.ulan-ude.ru/
ブリヤート共和国総合リンク集:http://www.buryatia.ru/

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