ロシア貿易最前線 ~汗と涙の30年、100回の訪ロ体験を語る~   ~大阪日ロ協会講演~
日露ビジネスセンター   代表  岩佐 毅   
ロシア貿易をめざし、白系露人の下で7年修業

皆さん,お暑い中を私のお話を聞いて頂くためにお集まり頂きまして、本当にありがとうございます。私は恥ずかしながら、神戸市外国語大学を、どん尻で卒業致しまして、学生時代、正直ほとんどロシア語を勉強しませんでした。実はその後,ロシア語もものにならず、全然違う分野の就職を懸命に探しましたが、就職できなくて困っていました。そして、ふとある日新聞広告に「ロシア語分かる方募集」というのがありまして,それで飛び込んで行ったのが神戸市にありましたドルジバ商会と言う会社でした。この会社はロシア革命で亡命して来た白系ロシア人のポロシンさんというおじいさんが開業した、ソ連船専門の、食料から色んな航海用品をサプライする会社でした。その当時年間3000隻位日本全国に入港していたソ連船を訪問して,注文を取って出港までに納めると言う仕事でした。そして、たまには小さな修理もするというような会社でしたが,そこに7年くらいおりまして,とにかく毎日ソ連船に行かされまして,段々少し耳が慣れてきて,会話が出来る様になりました。

熱弁を奮う岩佐代表

その後,7年後に32歳で、とにかく自分で何かやろうと思って事務所を開きまして、スタートしたのが始まりです。これは30歳ちょっと越えた頃でしたから、ちょうど30年前になりますね。それから現在まで、前にも何処かで言いましたが、「奥さんの顔を見ない日はあっても、ロシア人の顔を見ない日はない」という30年間を過ごして来ました。
しかし、学者でもないし、ジャーナリストでもありませんし、単なる零細中小企業をボチボチやってきただけの人間ですから、評論家のようなことは何も分かりませんけれども、ずーっと約30年に渡って付き合ってきたロシア、ウクライナ、その他の国も少しありますが、そういう人たちとの交流というか、そいったことをお話して、ご参考にしていただければと思います。

神戸・大阪港を駆け巡り、ソ連船専門船用品調達業務に従事

先ほど申し上げました通り、ポロシンさんの所に7年おりまして、辞めた時に大体50万円位お金がありました。それで10万円でボロトラックを1台買いまして、当時とにかく大阪港に入ってくるソ連船が大体月に数隻でしたが、それから周辺の和歌山とか堺とかにも入ってくるので、次々入港するソ連船を全部回っていったんです。そうしましたら、船というものは一種の工場であり、貨物を運搬する道具ですけれども、人間も住んでいますから、色々な買い物をするわけです。それが一番最初のスタートで、今でも覚えていますけれども、一番最初に頂いた注文は4万円でした。それを私、一生懸命納品しまして船長にえらい気に入られて、そこから出発しまして、毎日毎日ロシアの方にお会いするようなことになりました。
ところで、本当に非常に船乗りは気持ちが良いんですよね。船に行けば飯を食え酒を飲めで、凄く楽しくって、ウオッカのおかげで次第に耳も慣れてきて、ロシア語も段々上達しました。

はじめてのオデッサ訪問時、旧友と歓談中

そして、ロシアの方、ウクライナの方もそうですけれども、会社が大きい小さい、そういうこと言わないんですよね。要するに、人間なんです。人間的な繋がり、交流が大切で、現在もこれは同じだと思うんですけれども。やはり、非常に信用してくれまして、次々とお客さんを紹介してくれたり、それから、自分も次ぎに来たときは注文するぞって言って帰っていくのです。常に義理堅いのです。そして、暫くすると大阪に「岩佐」って言うのがいるぞと向うの船会社の本社のほうに響いていきました。特にソ連時代、ソ連は世界第6番目位の船腹を保有していまして、その中で一番大きな船舶公団はウクライナのオデッサにありました。オデッサというのは人口150万の大きな港町です。そこにあった黒海船舶公団は、350隻位の大型船を持っており各種港湾組織などいっぱい管理していました。完全な海運省傘下の国営組織で、6万人位社員が居る会社で、ここにえらい名前が響きまして、船長を通じて是非来てくれと、3年目か4年目だったと思うんですが、5年目だったかな?今行けば良い話があるぞって言う話を船長から聞きまして、こういう人に会いなさいと指示を受けました。この船というのがそのレジュメに載せている写真ですね、これは日本から大手鉄鋼メーカー=新日鉄、川鉄、日本鋼管などから、先ほど藤本先生のほうからお話があったパイプラインですね、1メートル40センチ位の直径の大きなパイプなんですけど、それが年間100万トン近く出ていましたね。それも、10年位連続で輸出されていました。このパイプの輸送船団というのがありまして、5万トン位のバルクキャリアと言うんですけれども、この姉妹船が10隻位ありまして、それがピストンで日本に来てどんどんパイプを運ぶんです。1回2万トンしか運べませんし、往復3-4ヶ月かかりますから、100万トン運ぶとなると物凄い量なんですよね。それで、この船団にえらい気に入られまして、この船団の上の人の所に行きなさいと言うことになり、早速飛んで行きましたら、約1億円の見積もりをしなさいと言うことになりました。これはパイプをデッキに積んだときに、てんこ盛りに積むんですけれども、ワイヤーを張って、チェーンで締めてゆくのです。それからチェーンを絞めるターンバックルと言いまして、要するに金具ですね、そういう物をそっくり代えると言う話でした。航海途中嵐に遭ってチェーンが切れて、海へパイプを落としたそうです。それで数隻全部のチェーンを総替えすることになった、そこで至急見積もりをしてくれということでした。
その金具の破断力を強めたいと言う話です。そこで、私は飛んで帰って、見積書を持ってもう一度行きました。

2回の商談で8千万円受注!
大圣管輸送船団「ゾーヤ、コスモデミャンスカヤ」号

そして、2回行って、8000万円位でしたか、とにかくうまく受注できました。さっき申し上げましたように、皆さん、ビジネス開始時には、最初たったの4万円の注文なんです、スタートは、ところが5年位で1回で8000万円位、ポーンと注文が来たんです。私はその注文をキチンとこなし、日本に寄港中の数隻の各船にチェーンなどの資材を指示通り配りまして、これは新日鉄の君津だとか木更津の方ですね、あちらこちらの港に配送しました。そして、この仕事を通じて物凄く信用が付きまして、また来いと言うことになりました。それからオデッサに行く度に何千万円と注文をくれだしたんです。そして、数年後、つまり開業10年位で売上げが10億円くらいになりましたかね。今度はオデッサに行きますと、船舶公団には色んなセクションがありまして、船舶修理部門、客船部だとかですね、そこを全部回らせられるんです。そこで色んな仕事がありまして、その内、日本の船会社でいいますと工務部ですか、そういう所と深くつながりました。実は船舶の修理がウクライナ、ロシアでは追いつかないんだと。それで、日本とか韓国とかシンガポールとかで工事をやりたいということでした。韓国はその当時国交がありませんでしたので、出来ませんでしたけれども、「お前船舶修理代理店をせんか」と言われまして、それで10年ちょっと経った頃でしたか、船舶修理ですね、それのエージェントを引き受けることになりました。実は私、何にも技術を知らないんです。お前出来るかって言うから、出来ますと断言して帰って、一生懸命勉強しまして、工務監督、船長も雇い入れて、それでどんどん工事を受注するようになりました。あと、シンガポールにも色んな仕事があるから出て来い、ということになりまして、シンガポールにも現地法人を作りまして、5人位中国人を雇って、同じような仕事をやりました。開業当初は食料担いで行くだけの仕事だったんですが、数年でシンガポールでも船舶修理改造などを行うようになりました。そして、色んな仕事がありましたですね。

50歳の誕生祝いを兼ねた友好の夕べ

その後、韓露が国交を開始し、漁船を10隻位韓国に持って行って、次々改装して出漁させる。これは大洋漁業(現マルハ)の魚を獲る仕事でしたけど、大洋漁業(現マルハ)がロシアにお金をポーンと何十億円も出して、十隻位古い船を韓国へ持って行って改装しました。1隻100トン位の船で1億円以上の工事なんです。それで1年間で10隻やったんです。漁労機械をどさっと積んで、そしてロシアに魚を獲らせるんです。その魚でファイナンス付けたお金を返してもらって、まぁこういうパターンの仕事でしたけれども大洋漁業(マルハ)がこれをやっていたんです。そういった関連会社に私の友達がおりまして、10隻改装をやってくれというんで、工務監督を入れて合計10隻、韓国でやったんですね。その後、結構色んな仕事が来まして、年商は一番多い時で18億円位やりましたですかね,だからそれはそれで非常に上手く行って、有頂天になってモスクワや(モスクワには海運省と言う本庁がありましたから)、サンクトペテルブルグのバルチック船舶公団、ウラジオストクの極東船舶公団などへ行ったりして、色々な仕事を上手くこなし、非常に忙しくて、それなりに順調に行っていました。

ゴルバチョフのクーデターで、ソ連信用失墜、大混乱に向かう

ところで、ソ連時代というのは全部相手は国営です。それで全部貸さんといかんのですよ。部品でも何億円と注文が来て、全部持っていった後、3ヶ月くらいしてぼーんと送ってくるのです。その当時は、みんなそういうシステムで、どの会社も全部、大手の物凄く大きいプロジェクトは別にしまして、信用貸ししておりました。
ソ連は国営の国だから大丈夫、大丈夫とみんな貸してるわけです。ところがご存知のようにゴルバチョフのクーデターが起こりましたよね、丁度私その時モスクワで遭遇しました。この話をしたら長くなるので、簡単に言いますけれども、このクーデターを境にロシアは完全に信用失墜です。このちょっと前にLC(銀行の信用保証状)なんかも来だしたんですが、ナホトカの港湾局から5000万円くらいLCが来て、それで、商品を全部調達して、船積みの準備をしているときに、クーデターが突然ボーンと起こりました。そしたら、住友銀行、今の三井住友銀行ですね。LCを突き返してきまして、「ご免なさい、今までだったらすぐ買い取ったけれどもこのLCは紙くずになりました」と言われたんです。要するに、5000万円一瞬にしてゼロになりました。それで私は慌ててナホトカに電話して、このLCもう銀行は買い取らんと言ってる、しかし、商品も全部調達してあるからすぐに全額送金して下さいと言ったら、簡単に「OK」とこう言ったんです。ところがクーデター後ソ連政府は外貨のオペレーションを長期間止めてしまい、実際にお金が来たのは1年以上後です。そういった状況で5000万円も商品を調達して、代金を支払わない訳には行かないから、立替て払いまして、1年ぐらいしてやっとそれを返してもらいました。というようなことからスタートしまして、ソ連はあっという間に信用がどっとなくなっていくんです。それでも私は大丈夫だと思ってまだまだ突っ込んで行きました。

5億円の不払いで船舶差し押さえ

それで,最後に段々段々お金を取れなくなってきまして、遅延ですね、1ヶ月と言った約束が3ヶ月、4ヶ月になり、ドンドン負債、信用貸しが膨らんで来まして、最後は大手造船所で修理した代金5億円くらい支払いが溜まってしまいました。これも全然不払いで、半年も1年も経っても不払いで、造船所に待ってくれ、待ってくれと言って待ってもらいました。それで造船所のほうもほとほと困って、これはなんとかせなあかんということになりました。その頃私の会社の売上も、数千万円踏み倒されていました。そして、私もとうとう決意しまして、シンガポールで弁護士を通じて船舶の差し押さえを2回やりました。
貨物積んだままの何万トンの船を急襲し差し押さえて、それで電話で向うの総裁、社長ですね、交渉するんです。待ってくれ待ってくれと言うんですけど、もう目処がない、1年以上ぽしゃっていましたから、それで払わないんだったら、私がするんじゃないよ、法的に造船所はこういうふうな手段をとってゆく、契約違反はもう待てないと言っている。船をスクラップに叩き売って代金を回収しますと言う話になりました。そうしたら、差し押さえ後、その船会社は4ヶ月くらい経って他の船を叩き売りまして、全額、しかも7,000万円の遅延利息をつけて支払いました。また、その事は後で知りましたけれど、これはソ連の崩壊のときですね、シンガポール沖で10隻、20隻とウクライナやロシアの船が差し押さえくらっていました。スエズ運河の通行料も船長がサインをするだけで、すっと通っていたんですが、全部前金を払えと言われまして、これもソ連が崩壊した頃です。それでもう大混乱ですね。私は5億円回収するのに、2年くらい掛かりましたね。そして、不良債権のみならず売上が激減です。今まで1億円2億円と毎月売り上げていたのが、急激にほとんど0に近くなりまして、それでどうしてもやっていけなくなりました。

52歳で破産整理し、路頭に迷う

そして、丁度10年前、弁護士に相談したら、これはもうどうしようもないなということになり、破産整理しなさいと言われ、それ以外はもう駄目だよということになりました。私は破産と言うのがどういうものか全然知りませんでしたけれども、もう弁護士の言うとおり従いまして破産を決意しました。その時弁護士が貴方は会社2つある、個人も含めると400万円お金要りますよと言われて、私はもうその時すってんてんでこれ以上絞ってもお金が出ない状態で、弁護士に破産整理をお願いしたら、400万円現金を持ってきなさい、とこう言われました。これは別に不当な要求だとは思いませんが、その時私はどうしていいか?真っ暗です。債鬼に追われて逃げ回らなければならないのかなと思いました。そうしたら、奥さんが実は貴方に隠れて生命保険を掛けていますというのです。それを解約すればそれぐらいは出来るかも知れません、と言ってくれまして,実はお恥ずかしい話ですが、それまでにも奥さんのお金も相当つぎ込んで、無理やり出させていたのは1000万円をはるかに越えていましたが、時既に遅くで、全然回収の見込みはなくなっておりました。

ところがあと400万円やっとの思いで調達できまして、弁護士の所へ駆け込んで破産宣告を取りました。借金は破産宣告で帳消しになりますね、しかし,それは口で言うのは簡単なことですけれども、大変なことでした。それまで零細企業ですけれども社長、社長と言われて、シーマに乗ってええかっこうしてました、私もね。ところがある日突然全部失いまして、家もたたき出され、52歳でどうしたらいいのか本当に困り果てました。

立ち直るきっかけは、友人の励ましと家族の支え

その後色んなことがありましたが、一つだけ挙げますと、私が立ち直る気になったきっかけが2つあります。一つは連帯保証人になってくれていた知り合いがいまして、今80歳くらいの方ですけれども、たまたま偶然知り合って取引も何にもない方なんですけれども、私を信用して1000万円ほどの融資の保証人をしてくれていたんです。で、破産しますから、その方の所に請求が行きますよね。それで私は恥ずかしくて会いにいけなくて「すみません」とは電話では言ったけれども、そのまま家に閉じこもっていました。そしたら、「出て来い」と、とにかくそんな篭っちゃいかんと、まだ52だ、若いんだ、もっとがんばれと言って励ましてくれました。それでこわごわ事務所を訪れました。すると、その方は「この前銀行が来たよ、1000万円払えと来た」と、そして、「これは大金だからローンを組んで上げましょう」と、当時協和銀行ですね、言ってきたと言うのです。そうするとその方は銀行員に「わしがいつローンを組んでくれと言ったんだ」と怒鳴り返したそうです。わしはこいつの書類にはんこを押すときに、1000万円横に置いてはんこを押した。明日現金で払うから取りに来い、と言って、代わりに払ってくれていたんです。

そして、大きな損害を与えた方が、「お前はまだまだ頑張れる」と言ってくれた、つまりすべてを失い茫然自失の私をまだ評価してくれる人が一人この世にいたのです。この一言はすっごく大きかったですね。それから家族の支えですね。家族は私を見捨てなかった。最後に400万円を奥さんが調達してくれ、命綱というか、助け舟を出してくれました。女房には、その後惨めな思いをさせましたけれども、これで負けたらいかんと思ったことが、「またがんばろう」という決意をさせたということです。しかし良いかっこうをしてみても、実際52歳になって破産整理して、倒産した人間を、何処も相手にしてくれないんです。今までの友人で知らん顔したのもたくさんいました。トラックの運転手や色んな事をしました。ロシアは懲り懲りだと思いました。こんなひどい目に合わされて大混乱しましたから、ロシアにはもう近づかないぞというのが本音でした。

浪人中アルバイトで糊口を凌ぐ~臥薪嘗胆の10年~
水産庁監視船にて航海中

浪人中、リフォーム営業マン、ガードマン、トラックの運転手、学校の宿直員、廃棄バイク収集業、たこ焼き屋手伝いなど色々な事をしましたが、何処へ行っても私は役に立たないんですね。私から「ロシア」をとれば単なる「肥えた中年男」でしかないのです。それでやっぱりロシアと何かやりたいなと思ってる頃に、ぼちぼちロシアに関することで、仕事の依頼がありました。3,4年経った頃ですかね、で、最初の頃にあったのが、今日こちらに前から2番目に座っていらっしゃる、当時専務を務められていた長崎国際テレビの杉谷さんのルポタージュの企画です。「旧ウラジオストク日本人町」をテーマにしたルポタージュを作るんだということでした。そこで、資料集めや通訳ガイドをやってくれんかと言う話がありまして、私はその時とっても嬉しく思いました。それで、サンクトペテルブルグ、モスクワに調査に行きまして、たくさん貴重な資料も発見しました。そして、長崎国際テレビさんは良いルポタージュを制作されました。私はほんの一部です、お手伝いしたのは、しかし、そのとき私は久しぶりにもう一度ロシアへ行きました。サンクトペテルブルグ、モスクワを回りながら、私はロシアを捨てたら何にも値打ちのない人間だなとしみじみ思いました。そうはいっても仕事は無いんですね。その後、帰ってきたら時々通訳の仕事がありました。例えば水産庁の密漁取締り船というのがあるんですけれども、鮭、鱒のシーズン、4~7月の期間、密漁の監視船が出るんです。大体、オホーツクとそれからサハリン沖やアリューシャン列島の方まで行くんです。その船に乗らないかと言う話があり、私は思い切って1300トンの船に乗りました。実際は仕事は全然無いんですが、1ヶ月乗ってロシア語で1回電話をするぐらいです。しかし、そういう世界もあるんだと勉強になりました。そうこうしている内にロシア関係の仕事がパラパラ来まして、片一方でアルバイトをいろいろやりながらそういう仕事をこなして行くようになりました。それで船に乗りますとお金をまったく遣いませんから、給料が全部貯まり、下船したら100万円ぐらい手元に残りました。

5年前事務所再開、通訳、翻訳で再起を図る。

そして、やっと5年位前に、小さな事務所を開きまして、事業を細々と再開しました。そして、そのころからロシアも少しづつ立直ってきました。去年くらいまではロシア語の通訳翻訳、色んな貿易などの相談事のアドバイスとかを手掛けてきました。少し軌道に乗ってきて、現在はここにいますアレクセイ君、ハバロフスク出身で日本語が堪能です、ナターリアさんもいます。今日はちょっと来てませんがサハリン出身で彼女も非常に良く出来るかたで、彼女は7年位日本にいます。その他ウラジオストクも二人ほどロシアの方を入れました。あとは嘱託で何人かいます。それで翻訳通訳で十分やって行けるようになったのです。しかし,昔とった杵柄で,やはり商売をやりたいなとの思いがつのり,もう一つ有限会社トライデントというのを作りまして,現在少しづつ貿易を始めています。メインは中古車、中古建設機械、中古タイヤなどです。昔もやっていましたので、大体様子が分かっているので、それらの輸出を始めています。中古車ですが、これがものすごいんです。正確な数は分かりませんが今一番多いい富山県でロシア向けに車を売っているところは、大体富山~高岡~新湊にかけて200社位あります。

大手タイヤ販売店にて(ウラジオストク)

また新潟にも集中しています。ロシアとビジネスしている会社が約150社位あります。そこにロシアの方がいっぱい買い付けに来ます。特に富山は伏木という港がございますね。ロシアから材木をたくさん持ってくる。そこに伏木海陸という港湾荷役の会社がありますが、ロシアとの材木取引を通じて色んなコネクションがあります。現在,伏木海陸運送という会社は、会長は自民党の橘康太郎衆議院議員で、日ロ議員連盟の会長です。そして、その息子さんが高岡市長に当選されました。
前社長でしたけれど,今現在社長は代わっています。まぁ地方の名門企業なんですがここがウラジオストクにホテルも経営しています。ベルサイユホテルといいまして,これは大正時代か明治時代に太田良三郎商店が開いた立派なホテルです。一時駄目になった時期もありましたけれども,立派な宮殿の様なホテルですが、それを伏木海陸は100%の資本は出していないと思いますが,再開し、合弁で経営されています。そして、文化経済交流にも力を注がれています。

ロシア、カザフスタンに年間45万台の中古車輸出
~大阪港に船持ち中古車、建機が常時1000台~

それからどの位中古車が出ているのか?新聞紙上などを賑わしていますが参考までに申し上げますと、富山県だけで昨年8万数千台,金額にして600億円,新潟は100数社ですから半分は超えていると思います。大阪も最近すごく増えてきていて、実は私の所にも7人から9人買い付けに来ています。それで年間45万台以上中古車が日本からロシアマーケットへ出ているんです。最近出てきたのがカザフスタンです。カザフも大分買っています。正確な数字は見ていませんが,旧ソ連全体で軽く1000億円は超えていると思います。中古車はロシアでは今,7年以上古い車は税制を変えまして、ただの車でも1万ドル近い税金を掛けるんです。8000ドルぐらいはかかります。そのようにして古い車は買えなくしているんです。それで最近はよい車を買っています。それは税金の問題のみならず,ロシアが豊かになったということだと思います。平均すると30万円から50万円の車を買っています。それで40何万台だから先ほども言いましたが、1000億円は越えていますね。ウラジオストクに行かれた方はご覧になったかもしれませんが、町外れの「緑の街角」という中古車センターがあり、山裾に見渡す限り車を置いています。要するに車を販売する展示場ですね。山裾ずーっと見渡す限り車です。

中古車センター「緑の街角」(ウラジオストク)

ユニックのクレーン車が林の様に並んでいて,私が売れるのと聞いたら全部売れるというんです。私の所に来るお客さんも2~3ヶ月に1回来て,20~30台中古車を購入するんです。トラック専門に買い付けする顧客は元陸軍大佐で,士官学校を出てウラジオストクの海軍士官学校の経済の教授をしてて,それが今は中古車屋になりました。もうすぐ来ますけれど。事務所も何にもないんです。娘の家と自宅でやっていて、トラック30台置くスペースを持って、2ヶ月位で全部売って、また来るんです。家に来いというので行ってみたらすごい家に住んでいました。そういう人はいっぱいいます。富山には200,新潟に150程度,関西ではたぶん100社くらいやってると思います。大阪は1000台くらい車が滞貨して、ずっと船待ちです。最近そんな状況が続いています。それから建設機械も相当出ています。とにかく中古車は10年くらい前からどんどん出てますから,数百万台の日本の車がロシアを走っていると思います。百万台ではないですね。去年だけで45万台出ているわけですから。日本の様に買って3年で買い換えたりしませんから、ずーっと乗ってますから、部品が良く出るんです。中古も出てますけど,新品の部品が出ます。大阪の大手の部品輸出会社が乗り込んで、凄く売ってます。それも幾つかの会社が進出しています。

私の会社にも色んなコネクションがあり、様々な商談が舞い込みます。こんなに車が行って、しかも長いこと使う訳ですから、新品部品の需要がたくさんあるんです。私の所に来るお客さんで、私は断っていたんですが,タイヤを買いに来る人がいます。新品のタイヤのメーカーは引き合いを出しても、相手してくれません。ブリジストンやらみんな販売店を既にロシアに持っています。ブリジストンはもうすぐ工場が行きますから。横浜タイヤやブリジストンやらどこにしろ,私が電話しても「もう、うちはちゃんとモスクワに会社持ってます。代理店があります,結構です」と全部断られる。
しかし、中古なら入荷できますね。わたしの所に中古タイヤを買いに来る顧客が、現在数社ありますが、例えばある1社は月に1万本以上売っています。この前行ってみたら40フィートコンテナ20本在庫していて,それで足らんと言っているのです。それからまた月に3000本売る者もいますが、やはり9月頃になるとすっからかんになる,直ぐに売り切れるということです。

ビアバー「底なし樽」にて
(ウラジオストク)

それはウラジオストク周辺だけではありません。もっとロシアの奥の方ですね、そちらの町からコンテナ単位で中古タイヤを買いに来るんですね。いままで大量の車が入って、道路は悪いし冬は厳しいし、タイヤは日本よりもっとよく換えるんだと思います。あるタイヤ販売店経営者は32歳なんですが、19歳の時に訓練生で材木船に乗って日本に来て、タイヤを買って道路に並べて売ったのが、いまや月1万本売って、在庫に40フィートコンテナ20個を持ってます。そしてバンコックで、ナイトクラブを経営しているということです。彼は今は他のことにも手を出して、ボートの船外機を売ったり、マリーナを経営しているんです。もう一人は家に来いというので行ってみたら、ロシアであんな大きな家を見たことが無いような立派な家で、ウラジオストーク郊外の森の中の200坪の敷地に1戸建てで、部屋を全部見せてくれました。リビングには大型薄型テレビがあって、100万円くらいかと聞くと、スピーカーをつけて250万円したっていうことでした。この人は38歳です。彼らはタイヤだけでもうけているのです。仕入れ値は高くても1本1000円くらいです。安い物は800円とか500円なんです。輸送費掛けても1500円行くかな?平均1000円くらいです。それを大体4000円くらいで売るんです。3500円くらいですかね。しかも向うは人件費は安いので1番高い人で1000ドルくらいです。番頭さんが1500ドルくらいまでで、後の並べたり片付けたりする人は300ドルくらいでしょう。儲かります。タイヤや車で儲けた人は一杯います。ウラジオストクは、今周辺で中古車や車関連商品を売っているだけでなく、全国から買いに来る人がいます。ウラル山脈からこっちです。ウラジオストクは一大物流基地ですが、問題も多く起こっています。車が多すぎて交通事故が凄い。ウラジオストクの町を回ってみれば信号はほとんど無く、坂道が多い。しかもマナーが悪い。日本の車は性能が良くスピードもよく出ます。朝から晩まで一度商談でぐるぐる回った際に、1日に5件私は事故を見ました。それは毎日だと思います。ロシアの人に聞いたらもっともっとですよということでした。死亡事故までは見ていませんけれど、冬は道路が凍り、それで飛ばすからもっと危ないです。それと排気ガスが多い。渋滞も凄く多く起こってます。

復興の波に乗り、活気あふれる新生ロシア!

自動車が増えて様々な困ることが起こっていますが、極東のビジネスの中心地としてウラジオストクはとても活気があります。去年は一回も行けなかったんですが、今年行ってみますといつもの安ホテルの入り口の所に売店がありまして、以前は化粧品とか石鹸とか中国、韓国製ばっかりだったのが、現在は全部日本製に変わっていました。資生堂、カネボウなどの日本製がずらっと並んでいたので、売店の女の人に「以前置いていた韓国製や中国製は売らないのか」と聞くと「あんな物誰も買わなくなった」と言うんです。「ロシア人も金持ちになったのか?」と聞きますと、「違うの、ロシア人もよく考えるようになった」というんです。つまり物事を熟慮するようになったと言うのです。電化製品とか、他のものも私はそうだと思うんです。要するに安い物ではなくて良いもの、ということは日本のブランドですね。日本製品に対する憧れというか、何でも良いものに興味が移ってきています。車もそうですが、前は欲しくても買えなかった。

タイヤ輸出商談中(ウラジオストク)

韓国製や中国製は安い。だから自然にそっちにいった。ところが、そういうブランド志向が、日本製ブランドですがね、そういう方向に移っているなと売店を見て思いました。ロシア人も「熟慮する」んだなと思いました。しかしいくら「熟慮」しても、お金が無ければ買えない訳ですから、やっぱりお金はあるということです。町並みもハバロフスクは特に綺麗で、モスクワは行ってきた人の話ですけれど、もう完全にロシアじゃないと言うことです。モスクワ市内には和食の店も100件くらいあり、それも立派な店で結構高いです。私も寿司がすきなものですから、この前ウラジオストークで「七人の侍」と言うなかなか良い店があり、その他にもう一軒、「エデン」というところなどに行きまして、私はいつも鰻とマグロを食べるんですが、日本の回転寿司程度ですが、割と美味しかったです。しかし、寿司2皿とビール一本、お酒を少しで8000円くらいでした。マグロは2個800円なんです。これではお客は誰もいないと思っていたら、すぐロシア人で一杯になりました。日本人なんかは少ないです。みんなそこで高いものを食べるんです。私はいつも鰻を頼むんですが、時々今日はありませんと言うんです。あなたの競争相手が昨日来て、そのロシア人が鰻は全部食べて帰ったというのです。最近はそういう感じです。勿論、貧富の差も拡大しているし、みんなが良いわけではないですが、何か活気がありますね。ソ連が崩壊した後の寂れた元気の無い状態ではなくなってきています。

ところで7月9日の産経新聞に「大手金融、ロシア進出」、「トヨタ工場呼び水に」と載っていますね。後でインナさん、彼女は大阪大学・院で博士号を取られて卒業された方なんですが、彼女はこの間のトヨタの工場の起工式で、同時通訳で参加し、プーチンさんの近くにおられたそうです。トヨタが出るっていうのは大きな影響があって、まさに国家プロジェクトなんです。現在モスクワに事務所を持つ日本企業が102社。この2年で40社増えました。ロシア国内の総生産成長率は少し下がったと言っても7.1%です。三井住友銀行が事務所を出し,東京三菱が事務所を現地法人に格上げし,実際の銀行業務を始めました。
あと,保険会社ですね。東京海上,その他銀行も、もう一つ,みずほコーポレーションも出て行きます。現在みちのく銀行が3カ所ロシアに銀行をこしらえて、住宅ローンを組んだり,色んな事をやっています。モスクワ,ハバロフスク,サハリンですね。しかし、大手の企業について出て行くのはやはり大きな銀行と書いてあります。一般的に銀行はもの凄く保守的じゃないですか、これが事務所を開いて、東京三菱なんて、一番堅いところも出てきたという状況ですね。やはりこれはロシアの経済が動き出したという感じを非常に強く感じます。

ソ連時代とは様変わり、前金100%の取引が常識

私がやっているビジネスは、些細なビジネスですけれども、ちょっと営業して、たくさんお客さんが来るようになりました。金払いが良くなって貸さなくてよくなったのは良いことです。大手の会社や,国家レベルのプロジェクトのことは知りませんけれども,中小企業同士の取引は100%前金です。前金を持ってこない人は相手にしません。24日にも一人,中古車を買いに来ますが、6万ドル持ってきます。それで全部車を買います。この様な客は多いいです。日本は信用があるので前金をちゃんと預けます。具体的に何がよいビジネスかどうか,私のやっている範囲でしか分かりませんが,色んなビジネスチャンスがやってきていると思います。参考までに申し上げると、兵庫県は

レトロ調のウラジオストーク市街

ハバロフスクと姉妹都市の交流をしています。が県が音頭を取りまして、一機168人乗りの飛行機をチャーターしましてハバロフスクに行くツアーをJTBを通じて募集しました。中心はビジネスマンなんです。ハバロフスクには日本領事館があり、外務省の外殻団体の日本センターがあります。ここの所長前田君は私の大学の同期生で、住商のモスクワ支店の駐在員をしたあと,ウラジオストクの支店長をしていました。定年前に退職して外務省から声が掛って、日本センターの所長になって3年目に成ると思います。彼が一生懸命,日本と貿易をするパートナーを募集しまして、彼が作ったリストを見たら凄い量を持っています。日本と貿易をしたいというロシア企業とのコーディネーターとなって商談をやります。まとまるかどうか分かりませんが、実に160人です。それも私はこのチラシを見て160人も集まるのかと思ってましたら、旅行者も含めあっという間に満員だそうです。私も行こうかなと思ったら席はありませんといわれました。日本の現地領事館には、いっぱいビジネスの相談が来てまして,日本と取引をしたいということです。

ロシア側企業には日本との経済交流に強い意欲

それは物になる話ばかりではありませんが、とにかく日本との経済交流について、小さい会社も強い希望を持っています。ですからみなさん方、ロシアに関心のある大阪日ロ協会の方々に申し上げたいのは、やはりこちらもロシアとこういう商売をやってみたいなど,色々取りまとめて頂いて、私もお手伝いしますから、ロシアとの経済交流を一生懸命開発する様に皆さんと一緒にやっていきたいと思っております。先ほど申し上げました経験を踏まえましてロシア語のサポートはお任せください。そちらに座っているアレクセイ・ボリゾフさん,彼はハバロフスクから来ています、それから他にもロシア人が何人かいますし、日本人もいます。とにかく我々の方で色んなサポートが出来ます。又色々取りまとめて頂ければお世話できると思います。話がさかのぼりますが「ウラジオストク日本人町」著者堀江満智さんー簡単にご紹介しますと、彼女のお祖父さんが明治大正時代にウラジオストクに行かれてビジネスに従事されていました。そして,その頃日本の会社が200社ほど進出していた時期があります。数千人日本人が住んでいて、大阪からも行っていました。そういう時代の記録をお祖父さんがたくさん残していました。写真や手紙,日記などです。彼女は最初余りよく分からなかったんですけれども、一生懸命整理してみようと,これは貴重な資料じゃないかということになって、それを整理されてこの「ウラジオストク日本人町」という本にまとめられました。実はこれ2冊目なんですが,この前はもうちょっと大きいのを書かれているんですけれども,良い本です。実はウラジオストークにも日本人が多いときは1万人ほど住んでいて、西本願寺も出てゆき西本願寺浦潮別院というのもありまして,住職もいまして,新聞も出ていました。
それは,「浦潮日報」というものでした。堀江さんのお祖父さんなんかが最初の印刷機を買って,

大正時代にウラジオストクで
子守をする日本人女性

お手伝いしていたということです。昭和の初めの頃までロシア語でも日本語でも出てたんですが,そういう時期があったんです。だからロシアは馴染みがないんじゃなくてですよ、実は日本人がたくさんいて,しかも皆成功していた。ただ革命だとかシベリア出兵とか色んな問題がありました。戦争があって結局全部引き上げてきて交流が途絶えたんですね。ソ連時代は長い間閉鎖都市になりまして、外国人は勿論,ロシア人も特別許可がないと入れない場所だったんです。サハリンもそうでした。そういう時期が、冷戦時代に続きましたが、非常に閉鎖された都市になってしまいましたが,ゴルバチョフのペレストロイカ以後,開放されて今はいくらでも自由に行けます。ウラジオストク便は関空から週3便,夏は日・火・金と飛  んでいます。約2時間です。堀江さんも5月にウラジオストクに行かれ,ヴィエンナーレという一種の国際的文化祭に、~60数人の日本からの参加があり~参加されています。それに並行して,同時に経済セミナーなどもありました。ウラジオストークは現在は結構賑やかな街で,非常に私は街並みが好きで、明治大正時代の建物がずーっと残っています。また、先ほど申し上げました極東船舶公団の社屋は実はユル・ブリンナー,ご存じでしょうか?「王様と私」という映画に出演していた人です。頭をつるんつるんに剃って,アメリカの俳優として活躍していましたが、実はこの人はロシア人なんです。しかもユル・ブリンナーは,ウラジオストク生まれなんです。その人の生家がありまして,その横にある建物が極東船舶公団の本社ビルになっています。そこがお祖父さんのブルネル商会というらしいですが,本社跡だそうです。その右側に大きい館がありまして、それが生まれた家だそうです。別荘なんかも残っているそうです。ということで,実は歴史的に見ると、日本も~堀江さんの話でも言いましたが~関係の深い所なんです。ハバロフスクもそうです。堀江さんの本も新聞の記事になりまして、一回朝日新聞にのった際、それを見て堀江さんのお祖父さんと交流のあった大河内さんという、~元大河内商店といいまして大阪の方なんですが、毛皮を日本に輸入していた会社なんですけれども~,そのお祖父さんと堀江さんのお祖父さんが交流がありまして孫同士が再会しました。そして、大河内さんも古い大きいトランクを持って来まして,資料がいっぱいありました。

ぐんぐん広がるビジネスチャンス
~大手銀行、損保もトヨタに続き、ロシア進出~

実はロシアとは遡ればもっと古い色んな事がありますが,貿易のことでもですね,実は色々と関係があった。しかし、途中不幸な戦争がありました。シベリア出兵で相当の戦争もやりましたが、平和に一緒に商売をやってた時期もずーっとあるわけです。先ほど言いました様に現在ロシアは開かれ、商売が自由に出来る様になりました。簡単に2,3言いますがビジネスの場合,ロシアの制度は大きく変わり,誰でも商売が出来るようになりました。ソ連時代は全く駄目でした。国営の組織でないと全然貿易も出来ない。ところが,今は個人でも誰でも貿易や,送金が出来る様になり,段々緩く成ってきております。お金の持ち出し,持ち込みも前はうるさかったのですが,今は1万ドルくらいまでは申告すれば大丈夫です。それ以上になると銀行の証明,どっから持ってきたかということが必要となります。送金も個人の口座に5000ドルまで,私の所に1回で入ってきます。

日露ビジネスセンタースタッフと共に

もう一つの大きい変化は、ソ連時代は一般人は外国へ行く自由がなかったのです。客船でたまに代表団が来ていましたが、あれは全部コントロールされた、特別な人だけが参加できたのです。労働組合を真面目にやってるとかで、しかるべき組織から推薦されて、いわばご褒美に参加させてもらえたのです。ところが,今は外国へ行くパスポートを誰でも申請すれば10日くらいで取れます。そして,日本のビザを取ってお金さえあれば、切符を買って、いつでも行けます。ビジネスも自由にやっていいと。これは大きな活気が出てきますね。勿論良いことばかりではないですよ。ロシア人に言わせると「金金金の世の中になった」と言っていました。だから困っている年金生活者とかね,たくさんいますし、一概にみんなハッピーハッピーというわけではありません。しかし、大体全体としては良い方向に向いているんじゃないかと思います。

兵庫県の建設機械関連工具メーカーが旧ソ連に進出、大きな成果

それから私がお手伝いしている仕事で成功している例が1つありますので、ご紹介しますが,ある建設関連機械工具メーカーのCIS諸国への進出,これは私のホームページを見てコンタクトしてこられたのですが、建物を建てた後に壁などに穴を開けますね,配管したりするためのです。この穴を開けるドリルの先端につける工具のメーカーが兵庫県にあります。
この会社がアメリカのコンサルタント会社を通じて旧ソ連のマーケットに切り込んでいきまして,2年くらいで17億円売上げ増を果たしました。年商40億円の会社が、旧ソ連マーケットだけでそれだけ成績を上げています。モスクワ,サンクトペテルブルグ,リトアニア,カザフ,ウクライナと4カ国に5カ所の事務所を作り,展示会にどんどん出て行ってるんです。建設関連産業は,ロシアは日本より盛んです。
今ロシアでは各地できちんとした展示会をしょっちゅうやってます。それに出てどんどん売り上げを上げておりまして,私の方は工場に,営業・技術の方やらが研修に来られる,その際のロシア語通訳翻訳のお手伝いをしています。
先日は翻訳=カタログや技術資料を1000ページ和文露訳しました。アメリカのコンサロスアンジェルスに25万人住んでいる。その他を入れたら100万人近くいると思いますが,ユダヤ人を中心にソ連時代からアメリカへ移住しているんです。今は渡航もかなり自由になりましたから、そういう人達がたくさんいます。私が付き合ってるコンサルタントはドイツ系アメリカ人が社長でその下にオデッサのウクライナ系ユダヤ人のスタッフが何人かいます。この会社は相当力があります。ここが日本企業を引っ張っていって5割近く売り上げを伸ばしました。また、現在私の方で講師を派遣しまして、工場の中で社長以下10人ほどの生徒が参加して、ロシア語会話教室を開いています。
この会社は本格的に非常にお金を掛けて営業されていますが,相当の成果を上げていると私は聞いております。 というようなことで,その他色んな所から様々な相談がいっぱい最近来るようになりました。今后、私の力が及ぶ限り,また色々コンサルティングさせて頂きたいと思っております。では、大体,時間が来た様なので、これで私の拙いお話でしたけれども、終わらせて頂きます。ありがとうございました。(平成17年7月21日)