連載「講演記録」 
〜40年間ソ連・ロシアを見つめ続けて〜


日露ビジネスセンター 代表 岩佐 毅
 

モスクワ郊外の自由市場でロシア民謡を歌う大道芸人とともに
 
第一回
       
 〜はじめに〜
ただ今ご紹介に預かりました、日露ビジネスセンター大阪事務所代表・岩佐でございます。今日はロシアに関する私のお話をお聞ききいただけるということで、19歳の時から40年間にわたり長年ロシアとかかわってきた私が見聞してきた様々な経験などを少しお話させていただき、何かのご参考にしていただければと思います。
 まず、最初にお断りさせていただきたいのは、私は今まで系統的に「学問」としてロシアを研究したり、ジャーナリストとして、ロシアや旧ソ連を幅広く取材してきたわけでもありませんので、あまり系統的に分析したり、全体的に問題を網羅して深く掘り下げて理論的にお話することはできません。  ただ、私は旧ソ連時代―ブレジネフ時代から現在にいたる約25年間ほどの間に、約120回ほどロシア、ウクライナ、バルト三国、モルドバ共和国などの現地を短期訪問した経験があります。  そして、その間ソ連からロシアへ、言い変えれば「社会主義」から「自由主義」と言いますか、「資本主義的制度の民主的な国」へと新しく大きく変貌してゆくこの国の、いわば普通の庶民たちとの様々な交流があり、また興味深いたくさんの経験もしてきました。
 そこで、断片的ではありますが、そういった様々な経験や見聞した事実をすこしづつお話し、いったいこのロシアという国はどんな国なのか、またロシア人という民族はどういった特徴をもっているのかなどを私なりにお話してみたいと思います。
〜ロシアとの交流のおおまかな経過〜    
私は昭和40年代の初め頃、神戸市外国語大学ロシア語科を卒業し、その後数年間、いわゆる革命で日本に亡命してきた白系ロシア人の老人の経営する、小規模なソ連貿易の会社に勤務しました。 その頃の仕事といいますと、毎日神戸港や大阪港などに入港してくるソ連船を訪問し、食料や様々な船用品の注文を受け、出航までに納品するという営業係をしておりました。
 その当時昭和45年ごろは、日ソ両国間の貿易量も今より遥かに多く、貨物船や客船などソ連船の日本への入港も結構多く、漁船をのぞいても全国で年間3000〜4000隻、神戸・大阪港その他周辺港を合わせて一ヶ月間に30隻―40隻ほどの入港船があり、かなり忙しくしておりました。
  〜ロシア革命で日本に2000人の亡命者〜
 ご参考までにお話すると1917年(大正7年)のロシア革命後、ロシア全土で4年間内戦が続き、ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ二世の側につきレーニンの革命軍に敗れた白軍の敗残の将兵たちやビジネスマンたちが大挙して外国(主としてヨーロッパとアメリカ)に亡命いたしましたが、日本各地にも多数流れ着き、総数約2000人が日本に定着したということです。  そして、もともと外国人居留者が多くロシア人が住みやすかった神戸にはそのうち約300名のロシア人亡命者が定住するようになり、もともとロシアでは相当の暮らしをしていた富豪や貴族たちが、しがない行商人などをしながら、生活していたということです。
 私が勤務した会社経営者のポロシンさんも、子供のころは爺やに連れられて、馬車で学校に通ったということで、どことなく上品さを漂わせた白髪の老人でしたが、来日後しばらく羅紗布を担いで、日本各地を行商していたそうです。
 現在でも少数ですが当時の亡命ロシア人の子孫たちが神戸に住んでいます。その中には、チョコレートで成功を遂げたことで有名な、モロゾフ製菓やコスモポリタン製菓などの創業者のモロゾフさん一族などというビジネスマンもいます。また、有名な小説家のトルストイの娘の1人も一時神戸に在住し、モロゾフさんの世話になり、最後はアメリカに亡命したそうです。


初めて訪れた冬のナホトカ港にて

〜大阪港でソ連船とビジネス開始〜

 さて、私は最初入社した会社を7年後33歳で退社し、大阪市内でやはりソ連船を相手に自分で小さなビジネスを始めました。 はじめの頃は食料などをソ連船に細々と納める小さなビジネスでしたが、次第に船舶修理やエンジン部品などを輸出する、いわゆるマリン・エンジニアリングを中心に取引を拡大して行き、その後18年間この会社の経営を続けました。  その当時ソ連海運省には世界第6位の船腹量がありまして、全国およそ15の主要港に船舶公団をおいて管理しておりました。日本近辺ではウラジオストークに極東船舶公団、カムチャッカ、サハリン、ナホトカにもそれぞれかなりの船団を所有する船舶公団がありました。特にウクライナ共和国オデッサ市にはソ連第一の規模で1万トン以上の船舶を350隻も所有していた黒海船舶公団という会社がありました。
 そして、その頃日本の大手鉄鋼メーカーは毎年ソ連向けに約100万トンのガス・石油パイプライン、いわゆる大径管と呼ばれる=口径140cmの大きなパイプ=を輸出しておりました。そして、新日鉄をはじめ全国各地の製鉄所に黒海船舶公団所属の5万トンの巨大船団が続々と入港し、この大径管を満載して出航しておりました。


大径管輸送に活躍したゾーヤ・コスモデミンスカヤ号
 私の会社はこういった船団との取引を通じて大きく成長して行きました。  そして、瞬く間に創立後10年くらいでモスクワに事務所を開設し、月間100隻ものソ連船が入港するシンガポールにも現地法人を設立して活動をはじ め、モスクワのソ連海運省 本庁や黒海船舶公団とのビ ジネスを更に大きく拡大し、日本、韓国、シンガポールでの造船所を下請けにした、船舶修理や各種舶用機器や部品などの輸出取引を進めてゆきました。スタッフも海外の現地スタッフを含め20名くらいに増大し、年商も20億円くらいまで急速に膨らんでおりました。
  〜始まったソ連訪問―沈滞と閉塞状況に驚き〜
 その頃、私もまだ働き盛りの40代半ばくらいでしたから、とても元気がありまして、2ケ月に一回くらいのペースでモスクワ経由オデッサやレニングラードなどによく出かけ、船舶公団や各地の港湾局などを相手に営業活動を続けるようになりました。
 しかし、その頃、ソ連はいわゆる「長期停滞期」といわれ、ブレジネフからアンドローポフ、そしてチェルネンコへと続く時代で、活気のない既に疲弊し、沈滞しきった社会でした。最初にモスクワに出張したときのことです。  私は丁度国会議事堂前で樺美智子さんというデモ隊の女子学生が警官隊との衝突で死亡し、日本中が政治的に大混乱した、安保条約締結反対闘争のあった翌年に大学に入学し、学生時代その当時流行のベトナム反戦デモなどにもよく参加し、どちらかというと、ソ連・中国などの社会主義国に強い憧れや興味をもっていました。  そこで、初めて憧れのソ連の首都であるモスクワに到着し、少なからず興奮気味で、旅行社差し回しのタクシーにのりこみ、空港から市内のホテルに向かいました。 すると、空港から市内までの約1時間の間中、この運転手さんはソ連という国や共産党の批判を関をきったように話し続けました。 たとえば、私がはじめてソ連を訪ずれた日本人だと分かるやいなや「何時までたってもこんなガタガタのボロ車のボルガしか作れないソ連はひどい国だ!トヨタは素晴らしい!」と話しだし、更に私が「モスクワにどこかよいレストランはありませんか?」と聞くと、「お客さん、ソ連という国では我々のような庶民はレストランで食事なんか何時までたってもできませんよ。共産党が我々の国をめちゃくちゃにしてしまったんですよ。奥さんがいつも話すのは、何時になったら綺麗なドレスを着て、レストランで食事ができるようになるのかしら」と言い出す始末です。

夜毎賑わうモスクワのレストラン
 こうして始まったソ連出張でしたが、毎回ソ連を訪問するたびに強く印象に残ったのは、この国はどこかが狂っているのではないかという感じでした。
 どの町のホテルにもたいてい大きなレストランがあり、バンドがはいり華やかなショウがあったり、必ずダンス・フロア−がついており、毎晩レストランには外国人やお金持ちのロシア人がどこからとなく集まり、夜遅くまでバンドの奏でる音楽が鳴り響き、まるでデイスコのような賑やかなところでした。
 そして、そういったところには毎晩綺麗なドレスを着飾った若い娘さんがたくさん集まってきており、外国人を見かけると即座に笑顔で声をかけてきてダンスに誘ったり、同席させてくれと言い出し、最後には必ず自宅に誘ってきます。
 彼女たちはいわゆる「夜の姫君=売春婦」です。そもそも、外国人の出入りするホテルの出入りは基本的にとても厳しく管理されており、一般のロシア人がドアを開けると、即座にドアマンが「パスポート!」と怒鳴り声を挙げ、何の用事でホテルに入るのかなどと警察官の取調べのような口調で根掘り葉掘り問い詰め、一般のロシア人はほとんど入れてくれません。しかし、何故か夜の姫君とおぼしい女性があらわれると、にこやかにドアをあけて招きいれ、「ナターシャ元気かい?」などと猫撫で声で話しかけ、その態度の豹変振りには驚かされたものです。 さて、そういった夜の姫君たちも実はインテリが多く、面白い話を聞かせてくれることもありました。 たとえば、次のような小話をしてくれた娘さんもいました。

毎夜繰り広げられる、レストラン北京(モスクワ)のエロティカル・ショー
− ある小学校1年生のクラスで、先生が一生懸命に社会主義的国際連帯について、お話し「ニクアラガは今とても貧しい生活で困窮している。 そこで、国際連帯の人道支援としてご両親にお願いして明日一人1ルーブルづつ寄付を持ってきてください。 」といって子供たちを自宅に帰しました。そして、翌朝「皆さん1ルーブルづつ持ってきましたか?」と聞くと一人の少年が僕はまだもらってきていません。だってお母さんが先生にひとつ質問があるといっていますといいます。  そこで先生が何の質問ですかと聞くと、「ソ連には共産党があるから皆な国民が生活に困って貧乏している。しかし、ニカラグアにはまだ共産党が結成されていないのに、なぜ国民が暮らしに困っているのか理解できない。その理由を説明してください」というものです。
 また、しばらくしてブレジネフが亡くなり、アンドロポフが共産党書記長に就任してまもなく後を追って死亡し、チェルネンコに指導者が代わった頃聞いた、こんな小話もあります。 ― ブレジネフが死んで天国に召され、まもなく、アンドロポフが新たな共産党の指導者に就任しましたが、しばらくして彼も天国に召され、ブレジネフと再会しました。 久しぶりに天国で出会った二人は話がはずみ、ウオッカを傾けて乾杯を繰り返します。すると、ブレジネフがふと「実はクレムリンの執務室に老眼鏡を忘れて天国に来てしまったので、プラウダ新聞を読むのに苦労している。君は私の老眼鏡を持ってきてくれなかったのかね?」と聞きますと、アンドロポフは「あなたのメガネには気づきませんでした。残念ながら私は持ってきてはおりません。しかし、ブレジネフさん、心配ご無用ですよ、まもなくチェルネンコさんがこちらに持ってきてくれますよ!」―

 これはまだチェルネンコさんが健在で、クレムリンで働いている頃聞かされた、いわばブラック・ユーモアです。しかし、事実その通り、チェルネンコは書記長に就任後1年もしないで、ブレジネフやアンドロポフに天国で再会することになったのです。ただし、ブレジネフの老眼鏡を忘れず持って天国に旅立ったかどうかは確認しておりません。  ブレジネフは実に18年間にわたり長期政権の座につき、その在任中はしだいにソ連の社会主義の矛盾が拡大し、経済も停滞の一途をたどった、いわばソ連が建国後急速に老化してゆく時期でもあったわけです。少し前のフルシチョフの指導した時代には「アメリカに追いつき、追い越せと!」いったスローガンが掲げられ、人類初の宇宙飛行士―ガガーリンなどが華々しく出現し、米ソが肩をならべて競合する、華やかな時代でした。

ペレストロイカ時代に増えたモスクワの露天商

 しかし、ブレジネフやアンドロポフ、そしてチェルネンコなどの老革命家たちの指導する社会は硬直化し、いつまでたっても良くならない生活ぶりに、一般国民はあきあきとした感情を抱き、次第に社会主義・共産主義を目指す社会体制から心は離れてしまっていました。そういったどこにも向けようのない閉塞感や苛立ちをこのブラックユーモアで表現しているような気がします。
 また、こんなこともありました。いつもホテルのバーやレストランで出会ってダンスなどに興じていた、女優の「片平なぎさ」にそっくりのカザフ人女性がいましたが、あるとき突然姿を隠し、どこにも現れなくなりました。そして、彼女の友人たちに消息を聞くと、雪の中を酔払い運転で走行中検問にあい、酒乱気味の彼女が暴れて警官に怪我をさせてしまい、逮捕されてしまったというのです。また、一説によると釈放と交換条件に多額のワイロを要求されたか一晩警察官の夜のお相手を求められ、それを拒否したために、逮捕されたという話もありました。
 しかし、それから数ケ月後に、また、彼女は颯爽とホテルに現れ、とびっきりのお洒落に身をやつして毎日あちらこちらを徘徊し始めました。私は、彼女を偶然見かけたので、「どこかにご旅行でしたか?」とききますと、彼女はニッコリ笑顔で、ようやくシベリア送りを逃れてきたというのです。
 警察に逮捕されあやうく数年の刑務所暮らしになりそうになったのですが、親戚中でお金を集め、闇のブローカーを通じて、ニセの精神病の診断書を入手し、精神病院にしばらく身を隠し、やっと解放されたというのです。 更に驚くことに、警察に逮捕されると、その肉親のところに見知らぬ誰かから電話がかかり、かなりの金額を支払えば事件をもみ消してやるという提案があるのだそうである。そして、それに合意すれば、しばらくして夜中に集金人がこっそり現れ、名前も名乗らないで、領収証ももちろん渡してくれませんが、大金を持ってゆくのだそうです。
 しかし、こういった闇のビジネスマンは口約束でも必ずキチンと約束を守り、しばらくすると精神病院に回してくれるようになっているのだそうです。 彼女のいたモスクワ郊外の精神病院の患者の実にほぼ3分の1がそういった犯罪者で、しかも、同室者の女性は姑殺しの犯人だったそうです。
 その頃モスクワの中心街の大通りにはあちらこちらに、「共産主義は勝利する!」、「社会主義社会建設にまい進するぞ!」、「人民と党は一体だ!」などという仰々しいスローガンが張りめぐされておりました。そして、毎年11月7日の革命記念日や5月9日の独ソ戦戦勝記念日などには赤の広場で大々的なパレードが華やかに開催され、赤の広場の正面には立派なレーニン廟があり、レーニンのミイラの遺体が安置され多数の市民が毎日お参りに来ていました。 また、どんな地方都市に行きましても目抜き通りにある一番立派な建物は共産党地方委員会であり、広場にはレーニンの銅像が必ず手をあげて立っていました。

全国津々浦々に聳えていたレーニン像
しかし、そういった『偉大な社会主義国』としての表面的な姿とは全く別の暗い闇の世界が歴然とソ連にはあったようです。そして、この「片平なぎさ」さんはやがて偽装結婚のための資金2万ドルを外国人駐在員や夜の姫君たちを相手にした闇ドルの交換ビジネスでせっせと稼ぎ出し、盛大な偽結婚式を挙げて、オーストリアのウイーンに出国して行きました。 その頃、ウイーンにはこうして巧妙に仕組まれた擬装結婚組織の手引きによって無事出国した1万人以上のロシア人女性が滞在しているという話でした。
 しかも、こうしてウイーン入国とほとんど同時に、国籍が取得でき、ソ連とオーストリアの二重国籍を取得し、自由に世界中の各国に出入りできるということでした。 一説によると、ウイーンは世界各国の情報戦争のメッカで、こういった擬装結婚によって合法的に亡命を果たしたロシア人女性たちにもキチンとロシアの情報機関=いわゆるKGBの紐がついており、私の推測ですが、KGBの協力者にさせられていたとのことです。
 そこで、いつまでたっても何の自由もなく、決して幸せな生活を獲得できそうにないソ連社会に見切りをつけたモスクワの機転の利く女たちは、たとえ体を売ってでも2万ドルを稼ぎ出し、擬装結婚組織をうまく利用して、外国に続々出てゆくというわけでした。
 さて、その後、ご存知のようにゴルバチョフが現れ、ペレストロイカといわれる改革がはじまり、急激に社会が変化しはじめました。そして、1991年にはゴルバチョフが監禁されたクーデターがあり、エリツインに指導者が代わり、その2年後にはとうとう共産党も崩壊し、ソ連そのものが分解してしまい、社会主義・共産主義を目指していた従来の体制は跡形もなくどこかえ消えてしまいました。 (つづく)